たアメリカ型の外套を着たまま椅子にかけている松崎は、陽気にふき出した。
「なあーんだ! ハッハッ愚にもつかないことでいい年をしながら啀《いが》み合っているんだな――それにしても、君んところ、狭いのに大変ですね」
「大変です、寝床低い、それだけ石油沢山いります」
 日本語で云って、ジェルテルスキーは額を赧らめ、内気に笑った。マリーナが来てから、寝台を二人の女に譲って、彼は畳の上で寝ていた。布という布をかけても、冬のとっつきの寒さで眼が覚めた。誰が代を払えるのか当のつかない石油がそれ故夜|中《じゅう》、ストウブの中で燃やされるのであった。
「いつまで置くんです?」
「さあ――今に帰るでしょう」
「どうも、何だな、そういう点が日本の女と外国の女との偉い違いだな、君、日本の女だったら自分の夫に立て替えた金が返らないって、友達の家へころげこむ者は無いですよ、それに、置いてやるものもまあ無いね、私だったら、どやしつけて帰してやる。ハッハッハッハ、君は、義侠心が豊富だとでも云うのかなハハハハ」
「――私は頼まれると断れない気質です――弱い――気が小さいです」
 ――外事課高等掛を友人に持つというのは、然し、何と鬱陶《うっとう》しいことか! ジェルテルスキーは、故国にいる間絶えず種々な頭字を肩書に持つ友人に煩らわされた。外国へ来ると、その土地によって、長かったり、短かったり、兎に角何等かの肩書ある知友を得ない訳には行かないのだ。
 ダーリヤが、ビスケットの皿や砂糖を卓子に出すのを眺めながら、ジェルテルスキーは、
「今日、松崎さんが来たよ」
と云った。
「へえ――」
「うるさいこと!」
 マリーナ・イワーノヴナが、大仰に顔を顰め、両手をひろげた。
「もう私がこちらにいることでも嗅ぎつけたんですよ」

        六

 三人は茶を飲み始めた。
「リョーニャ、明日お休み?」
「ああ」
「二週間ぶりね」
 マリーナは黙って砂糖をかきまぜ、その匙《さじ》を受け皿の端へのせ、悠くり一杯飲み干した。彼女は、自分が決して他の多くの者のように匙をコップにさしたままなど飲まないのが自慢なのであった。ジェルテルスキーは、窓枠にのせて置いた黒鞄から、露字新聞を出して、マリーナに与えた。
「ああどうも有難う。――この頃の新聞は電報みたいですね、略字で端から端まで一杯だ」
 マリーナは、それを拡げた。ダーリヤは、ゆるやかな紅がちな縞の部屋着姿で、卓子にゆったり両肱をのせ二杯目の茶を啜《すす》っている。コップを持ち上げる毎に、寛い紅い袖がずって深く白い腕が見えた。彼女の部屋着はもう着くずされている。それが却って可愛ゆく、覆われている肉体の若々しい艶を引きたてるようであった。――レオニード・グレゴリウィッチは、愛情をこめ、素早く妻を目がけ接吻を送った。ダーリヤは、さっと肌理《きめ》のこまかい頸筋を赧らめた。夫を睨んだ。が、娘っぽい、悪戯《いたずら》らしい頬笑みが、細い、生真面目な唇にひろがった。――マリーナは、彼女の顔の前にまだ新聞をひろげている。
 皆が飲み終る頃、二階じゅうを揺り動かして、羅紗売りのステパン・ステパノヴィッチが、巨大な、髭むしゃ顔を現わした。
 それを見るといきなり、マリーナ・イワーノヴナが飛びかかるように、
「いかがです、貴下の五十三人目の恋人の御機嫌は」
と云って笑い出した。
「いや、どうも――マダム。――いつも貴女のお口は鋭い」
 ステパン・ステパノヴィッチは、先ずダーリヤの手を執ってその甲に恭々《うやうや》しく接吻し、次いでマリーナにも同じ挨拶をした。
 彼は絶えずけちな情事ばかり追い廻していると云うので、皆の物笑いになっている独り者の男であった。羅紗を売るのを口実にして、よその細君のところへ入り込むことも有名だ。マリーナ・イワーノヴナは、彼がどんな女にでも惚れるのを馬鹿にしながら、憎んでいないのは明らかであった。彼女の浮々した毒舌に黙って微笑しつつ、ダーリヤは、新しく来た客のために茶を注ぎ、寝台の上へ引込んだ。彼女は、自分の前で跪《ひざまず》いたり上靴へ接吻したりした男に、部屋着姿を見られるのを工合わるく感じたのだ。
「ねえ、ステパン・ステパノヴィッチ、この頃、どなたか、私共の仲間の奥さんにお会いでしたか」
「一昨日、マダム・ブーキンにお目にかかりました――いつも美しい方だ――実に若やかな夫人です」
 マリーナは肱で、ダーリヤの横腹を突いた。
「あの方は一遍、活動写真に映されてから、御自分の美しさに急に気がつきなすったんですよ」
 一つの角砂糖を噛んでステパン・ステパノヴィッチは三杯の茶を干した。
「ああ結構でした」
 彼は、ジェルテルスキーに向って頭を下げながら何か小さい声で云った。するとジェルテルスキーは、例の手つきで髪をかき上げ、間
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