た。――ジェルテルスキーは、そのように押しづよい女の四つの目で見つめられる自分の口許に髭の無いことが、変に気になった程、沈黙は脅威的であった。彼は遂に、
「では兎《と》も角《かく》私の家へお伴しましょう」
と云った。
「ダーリヤ・パヴロヴナに一度都合をきいて見ませんとどうも――若し彼女にさしつかえないようだったら、勿論私共は悦んでお宿致します」
マダム・ブーキンはちらりと素早い流眄《ながしめ》をマリーナに与えた。が、気落ちしているマリーナ・イワーノヴナはそれを捕えず、ただジェルテルスキーが家へ行こうと云ったのをだけ理解したように、重々しく椅子から立ち上った。
二
数ヵ月のうちに母親になろうとする体のダーリヤ・パヴロヴナは、狭い部屋の中を悠《ゆっ》くり隅から隅へ歩いていた。レオニード・グレゴリウィッチが電車賃を節約するために勤め先と同じ区内にこの貸間を見つけたのであった。主人は請負師であったが、この男は家にいない。妻らしい女も見えなかった。階下には六畳、三畳、台所とある、日光のよくささないところに六十余の婆と六つばかりの女の児が生活していた。
往来に面した窓の外を、ここでも今日は砂塵が、硝子を曇らして舞い過ぎた。ダーリヤは自分独りの時は石油ストウブを燃《た》かないことにしていた。それ故室内は暖かではない。然し、決して居心地悪い場所とは云えなかった。窓には白地に花模様の金巾《カナキン》のカーテンが懸っていた。一畳ばかりの勝手を区切る戸の硝子は赤い木綿糸でロシア式刺繍をした覆いがかかっているし、二階から上って来る、ジェルテルスキー家の入口である襖の左右にも、アーチのように、海老茶色に白でダリヤの花の模様あるメリンス布が垂れ下っていた。柱にかけた鏡の上に飾ってあるバラの造花、ビール箱を四つ並べた寝台の頭上の長押《なげし》に、遠慮深くのせられてある三寸ばかりのキリストの肖像。――それ等は、悠くり、隅から隅へ歩いているダーリヤのやや田舎風な、にくげない全体とよく調和していた。レオニード・グレゴリウィッチはひどく背が高い。ダーリヤも二寸位しか低くなかった。そして同じように、余り艶のない金髪である。
――二十度近くも室内散歩を繰返えすと、ダーリヤは、窓の前の卓子へ戻った。その辺の畳へ、細かい羅紗の裁ち屑が沢山散らばっていた。彼女はさっきまで子供外套の裁断
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