るダーリヤはマリーナを擁《だ》きしめたい程感動した。彼女は、立って室内を歩き出した。マリーナは吐息をつき、頭を振り、編物をとり上げた。往来に遊んでいた子供はどこへか去り、あたりは暫く静かであった。向い側の店々が正面から午後の斜光を受けている。ダーリヤが窓のそばへ歩きよる毎に、日除けの下に赤いエナメルの煙草屋の商牌《しょうはい》が下っているのが見えた。タバコ。コバタ。バタコ。――それは色々に読むことが出来た。――
 三時過て、レオニード・グレゴリウィッチは勤め先から帰って来た。先ず帽子を脱ぎ、マリーナ・イワーノヴナに挨拶をし、彼は、ダーリヤの手ミシンの蓋をはずして畳に立て、跨《またが》った。彼等の生活には、椅子が二脚しかないのであった。ダーリヤは茶の仕度に立った。
「どうです? 何か面白いことでもありまして?」
 金髪をかき上げながら、ジェルテルスキーは喉音で、
「なんにも。毎日同じ顔――同じ仕事です」
と答えた。彼は妻だけであったら、その後へ、
「相変らず碌なことはない」
とつけ加えたかったのを堪えたのだ。今日、昼食を食べて煙草を吸っていると、不意に松崎が上って来た。
「やあ、どうです、やってますね」
 編輯員の誰彼に愛嬌を振りまきつつ、彼はジェルテルスキーの机の横へ椅子を引張って来た。
「大分暖いですね、今日は。奥さんお達者ですか? 一寸通りかかったもんで、どうしていられるかと思ってね」
 松崎はちらちらジェルテルスキーがタイプライターで打ちかけている草稿を覗いたり、積みかさねてある新着の露字新聞を引き出して目を通したりしていたが、
「ああ、近頃何でもルイコフ君の細君が貴方のところへ行っているそうじゃありませんか」
と云った。彼は、全体小柄で丸い胴の上にのっている健康らしい顔に、他意なさそうな笑いを漲《みなぎ》らしながら続けた。
「一体どうしたんです? ルイコフ君迎えにも来ないんですか?」
「……マリーナ・イワーノヴナが考えている程に重大に思っていないんでしょう。大方」
「へえ――何でそんなに衝突したんです? ルイコフ君、浮気でも始めたかなハハハハ」
 ジェルテルスキーは、聞き手がもうすっかり知り抜いているに違いないのに、改めて、極めて自然に質問するので、礼儀上からでもそれに答えなければならない不愉快を忍びつつ、大略を話した。猫背に見える程ベルトを高いところで締め
前へ 次へ
全21ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング