の日から時間をきめて本をよんでいたのをやめ、休暇が終る前の日、寮へかえってしまった。
温室の中で、三脚にかけて風の音をきいている順二郎の心に、憤ったようにして自分を見つめていた姉の顔が泛んだ。それと重り合うようにして、小田だの、山瀬、桂という同級の連中の嘲弄的な声や目や肩つきが泛んだ。上唇に薄すり柔毛のかげがある順二郎の丸い顔は心持蒼ざめた。四日ばかり前、昼休みの丁度前学生集会所へ撒かれた。順二郎も拾った。読み始めていたところへ、
「拾ったものは、こっちへ出したまえ! 持ってちゃいかん。出した、出した!」
あんぺ[#「あんぺ」に傍点]と渾名《あだな》のある体操教師が怒鳴りながら駆けつけて来た。
「おい、出した!」
順二郎は、素直に手にもっていたものをあんぺ[#「あんぺ」に傍点]に渡した。傍にいてそれを見ていた小田が、腰につけている手拭をやけにパッとぬきながら、
「おい加賀山、君の公明正大論もいいかげんにしろよ」
いかにも軽蔑したように云った。きちんと制服に靴をつけ、手拭を腰に下げる趣味も持っていない順二郎は、態度は崩さぬながら顔を赧くした。まわりにいた学生たちも持っていた筈だったのに、あんぺ[#「あんぺ」に傍点]に渡したのは順二郎一人なのであった。
順二郎は、学校ではこの頃次第に一種の変り者と見られるようになりかかって、幾分それを自覚してもいた。山瀬などは、
「僕は加賀山のいるところで議論するのはいやだよ」
と、順二郎に向って率直に非難した。
「君はいいかげんのところへ行くと、いつも対立をぼやかす折衷論ばっかり出すんだもの、発展がありゃしないや」
シクラメンの細かい発芽の上にとどまっている順二郎の動かない視線のなかには孤独な、思い沈んだ表情があった。順二郎から見れば、まわりの人々はみんな母だって姉だって友達たちも、何かシーソーの両端にのって、上ったり下ったりしているように思えた。結局は五分五分だのに、賛成したり諍ったりしているように思えた。そういう騒々しい、そして不確定に思える波立ちのどっかの底に、人間全体をひっぱって行く絶対な真理というものは無いだろうか。正義を愛し、平和を愛すのが人間の本性だとすれば、どうしてそれを純粋に愛と正義とによってだけこの世にもたらす真理や手段がないのだろうか。どっかにある筈なのに、人間の探求心がそこまで真剣につきつめられていないのではないだろうか。順二郎の懐疑は社会の矛盾や対立の関係に対する理解が深まるにつれて、反動的にこの点で深まって来るのであった。利害の対立で社会が苦しんでいるならば、更にそれを強調して見たところで、どうして心の解決があるのだろう、と順二郎は、歴史を後がえりさせて抽象の世界へ迷い込むのであった。この模糊として光明のない境地へ歩み込んでしまうと友達は勿論彼にとって親密な姉の宏子さえも、順二郎にとっては別の世界で自分の道を歩いて行く人としか思えないのであった。
純な[#「純な」に傍点]わが息子の、ふっくりとした若い面ざしの上に、このような凄まじい色が漲ることを、ただの一度だって瑛子は思い及んでいなかったであろう。暗鬱な、内部圧迫が高度に達した容貌で、順二郎は暫く季節はずれの南風に吹きあおられている庭の竹藪を眺めていた。
部屋へ戻って、順二郎はきっちりと制服を着た。
「母様、僕ちょっと田沢さんところへ行って話して来る。よくって?」
宏子は、彼に、順ちゃんあなた田沢さんの真似なんかしちゃ大変よ、と寮にかえる前の晩云った。田沢さんの血はひやっこい。順ちゃんの血は重くて、熱いんだもの。真似したら不幸になるだけよと云った。姉が本気にそう云った顔をも順二郎は今はっきり思い出すことが出来るのであったが彼の見かたはまた別であった。田沢がどういう性格であろうと、自分より学識の点では豊富なのだから、その学識の面でつき合うことは正しいと、ここでも亦抽象して順二郎は自分に公平だと信じられる行動の理窟を立てているのである。
順二郎は帝大の横門から入って、田沢の研究室の方へ風や砂塵と闘いながら歩いて行った。
八
図書館のところを順二郎が通っているとき、そこから二人連の学生が出て来た。
「ひどいなア」
一人が顔をそむけて風にさからいながら帽子の庇をおさえた。もう一人は、重吉であった。彼はいきなり真向から吹きつけた砂塵に顔をくしゃくしゃとさせたが、そのまんま黙って同じように心持上体を前へかがめて大股に表通りの方へ歩いて行った。
電車の停留場まで行ったとき連れの山口が、
「今晩出て来るかい」
と云った。
「ああ。六時半からだったろう」
「創作方法をやるんだそうだ」
「そうかい」
「光井も来るそうだ。是非来いよ。今夜は一つ大いに蘊蓄《うんちく》を傾けて見せるぞ」
週一回、本屋の二階でやっている文学研究会が今夜あるのであった。
「じゃ」
「うん」
重吉は、東京でも有名な寺のある町角のところで電車を降りた。そして、二三丁先の、いつ見ても客のいたことのない印判屋の横丁を入って、古びた小さい二階家の格子をあけた。
大工の後家である下の婆さんが襖の中から丁寧に重吉の挨拶にこたえながら、
「お手紙が来ていますよ、お机の上にのせておきました」
重吉は、肩を左右にゆするような体癖で重い跫音を立てながら部屋へあがった。山口が、対にこしらえさせた白木の大本棚が六畳の壁際に置かれている。机の右手には三段になった飾りのない落つきのいい低い本棚がある。重吉は白キャラコの被いのついた薄い坐蒲団の上に制服のまんまあぐらをかいた。そして、左の掌でほこりっぽい顔を一撫でした後、机の手紙をとりあげた。一通は重吉の見馴れたハトロン紙にマル金醤油株式会社宇津支店と印刷した傍に、佐藤ケイとぎごちなく万年筆で書いた手紙。母親からの手紙であった。もう一通は、水色の西洋封筒が珍しいが弟の悌二の字である。封をすぐは切らないで、重吉は、二通の手紙に目をつけたまま肩をゆすってあぐらをかき直すような動作をした。
重吉は、流し元へ下りて行って、ザブザブ顔を洗って来ると、制服の襟ホックをはずしたまま、今度は一気に二つの手紙を読んだ。商業へ通っていた悌二の汽車の定期が前学期で切れた。新しく買う都合がつかなかったので、毎日切符で通うことにして暫く辛抱して貰っていたところ、悌二がそれを苦にして学校へ行き渋りこの頃は学校をやめると云い出している。将来御許の片腕となって家運挽回をはげむにも今の世の中に小学きりではと思い、私は泣いて行ってくれと申せど、悌二は兄さんには僕の心持がきっと分ってもらえると申して承知しません。一応御許とも相談いたした上でと思い云々。父親の源太郎が、そんなことを云う意地気のない奴は学問なんどせんでええ! 馬車ひいておれ! と憤激している姿も、母親の手紙の文面に髣髴《ほうふつ》としているのであった。
悌二の方は、いかにも永くかかって下書きしたのをまた次の晩電燈の下で永い時間かけて清書したらしく、消しの一つもない手紙に、ありどおりのいきさつと自分の心持とを披瀝していた。父上が意気地無い奴と罵られるのも無理はないと思います。けれども、僕には正直なところ、家が苦しい中からそんな思いをしてまで学校をやってゆくだけ自分の頭に自信がありません。幸僕も体の方は兄さんに負けないつもりだから、僕は兄さんの手足となって家のために働くつもりです。僕のようなたかの知れたものが、現在の家の事情でいくらかでも学資をつかうよりは、その分も兄さんにつかって貰った方が有意義だと信じるのですが如何でしょう。兄さんの将来の目ざましい成功は故郷の何人も期待して疑いません。中央の最高学府の生活は金もいるでしょうから、僕は兄さんが少しの金でも有益につかって下さると思えばうれしいです。
重吉の刻みめの深い、しっかりした顔だちの上で優しさと苦しげな表情とが混った。家運挽回と結びつけて、少年時代から重吉にかけられているこの期待のために、重吉は決して単純な学生気質で暮せなかった。重吉の思い出のはじまりの情景には、或る午後ドタドタと土間に踏みこんで来た執達吏、家財道具や家の鴨居にまで貼られた差押えの札、家の前の往来で真昼間行われた競売とそのまわりの人だかりがやきつけられていた。
高校時代、重吉は既に貧困の社会的な理由を理解していたし、それを踏んまえて立っていたが、不規則な食事のために旺盛な肉体は不調和を起して、奇妙な神経痛に苦しんだりした。
親たちが、昔広国屋と称した名主の家名に愛着している心持や家運を挽回させようと日夜焦慮して、重吉を唯一の希望の門としていることも、競売を目撃し、その時の親たちの感情を幼いながら共にわかちあった彼には無理ないこととして思いやられているのであった。重吉が経済学部に籍をおいていること、傍ら文学の仕事に心を打ちこみ、なお進歩的な青年らしい社会の動きに参加している気持の裏には、これらの事情を悉く慎重に思いめぐらしての上での決意がこめられているのであった。今に重吉が井沢郡から代議士にうって出て見ろ、最高点をとるにきまっとる、と云う周囲の焙りつくような待ち遠しい目を身に受けながら、重吉は寡黙に、快活に温い頑強さで、自分がそれらの人々の希望している通りの者には決してならないことを自覚して暮しているのであった。
重吉は、故郷の家の有様を思いながら、白カナキンの日よけのかかっている窓越しに外を眺めた。表通りの紙屋と豆腐屋の裏が重吉の窓に向っている。豆腐屋の裏二階の羽目はどういうわけかあくどい萌黄色のペンキで塗られていた。何年もの風雨で曝《さら》され、もはやはげかかっているその色が今日の荒々しい灰色の空の下では、佐伯祐三の絵にあるような都会の裏町の趣を見せている。同じ都会の或る庭では竹藪を吹きざわめかせる季節はずれの南風は、重吉の部屋の在る町あたりでは、時々どっかでガワガワとトタンの煽られる音を立てている。表通りから細かい砂塵がガラスに吹き当てられた。重吉の故郷の家も、思えばこんな荒天に難航している小舟に似ていた。父親の源太郎が中央に突立って叱咤しているのであるが、その人自身絶望から希望へ、希望から絶望へと絶えずつきころがされて来た。そして、先ず家内の者が自分の命令に服さなければどうして他人を従えることが出来るかという熱烈な肉親の情と焦慮とで、源太郎は家族や使用人に暴力をふるった。その前に先ず酔っぱらってから――。
それは大抵夜であったから、源太郎の暗い店の前に町とも村ともつかないその近所の連中がたかって来て、面白そうにどたんばたんの騒ぎを見物した。重吉は、そういう時自分の頬っぺたを流れ落ちた涙の味を刻みつけられている。善良な、一本気な父親に狂態を演じさせる力を憎悪した。
重吉は、考えに沈んだときの癖で頭を心持右へかしげ、ゆったり大きいあぐらの片膝をゆすっていたが、やがてあり来りの馬蹄形の文鎮をのせてあった原稿紙をひきよせて万年筆をとり、母親と悌二とへの返事をかきはじめた。
重吉には自分より気の弱い悌二が、友達どもに気をひける気持も察しられた。しかし悌二も、卑屈でなく生きてゆくためには、貧困が恥辱ではないことを知らなければならない。重吉は思いやりをこめた兄らしさで悌二の心持に元気を与え、学校をあながち無理につづける必要もないと考える彼の意見を書いた。だが、もとよりそうしたからと云って僕はその金をまわして貰うことなどは考えてもいないよ。僕は今でさえ心苦しく思っているんだから。僕も自分の満足のためだけならば或は学校をとうにやめていたかもしれないくらいだ。三分の二ほど進んだ時、
「おう、いるかい」
二階に向って呼ぶ声がした。重吉は万年筆を持ったまま立って縁側から下の往来を見た。
「どうした」
「いいか」
「ああ」
今日は、口んなかまでじゃりじゃりだねと云いながら、階段をあがって来たのは光井である。光井は高校が重吉と同じで今は英文学にいた。
「今夜会えるだろうと思っていたよ」
重吉が机の上の原稿紙を片づけながら云った。
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