置いときゃいいじゃないか」
怒ってるような姉の声に順二郎は黙っている。
「――田沢さんたら、千鶴子さんに、お前と結婚さえしていなかったら奥さんと結婚したのになんて云うもんだから、この頃は田沢さんが出かけようとすると、泣いて格子に鍵をかけたりするんだってさ。――どうしてそんな夢中になれるんだろうね。私なんかとてもそんな気持にはなれないがねえ……」
そう云っている瑛子の眼と声の艶とは、それ等の言葉を全く裏切って、熱っぽい興味と亢奮と、宏子が知りつくしている独特の成熟したエネルギッシュな光彩を放っているのである。それらの言葉と顔付との間には瑛子が自覚していない貪婪なものが潜められていて、宏子は思わず母の手の上に自分の手をおいて、
「ねえ、母様、母様も少しは小説を読んでいる方《かた》なんだからね」
と、低い呻くような響で云った。
「そんな風に話すのおよしなさいよ、ね――何故嘘つくのよ!」
瑛子は心外らしく顔付をかえて大きい声で云った。
「いつ私が嘘をつきました――嘘は大嫌だよ」
「だってそうじゃありませんか。そんな気持になれないなんて――母様が……」
宏子は、弟がいるので意味深長な、鋭く悩みのこもった一瞥を母に与えた。
「私には云えないけど――現にそうじゃないの、自分でわかっていらっしゃる癖に。私にも母様のいろんな気持、わからなくはないのよ。そう世間並にだけ見てもいやしないわ。それだのに何故そうやって嘘をおっしゃるのよ。何故冷静ぶったりするのよ。そんなの偽善だわ――だから……」
宏子は自分を抑えて沈黙した。宏子は田沢と母との所謂《いわゆる》文学談そのものも、想像すれば、まざまざ同じ拵えものの偽善めいたものにしか思われないのであった。
「こんな暮しをしていて」
宏子は室内を視線でぐるりと示した。
「社会的には体面も満足させる良人をもっていて、自分の気持に対してまで偽善的だったりしたら、あんまり通俗小説だわ」
若くて青年ぽい良心の自覚やそれを譲るまいとする荒々しさから宏子は、溢れそうな涙を無理やりのみ込んだ猛烈さで、飛びかかるように云った。
「もし母様がそんなんなら、私、もう本当に、本当に、同情なんかしやしないから!」
宏子は女の歴史的な苦しみの一つとして母がこのことで苦しむのならば、娘である自分も堪え、皆も堪えさせようと心をきめて見ているつもりであった。どうなるのか、どんな破局がおこるのか。そこには恐怖がある。それでも母は本心に従ってやったらいい。宏子は一生懸命で気力を集めてその考えに到達していた。だのに瑛子自身が、妙に体を捩《ねじ》くらしたような態度でいいかげんな風に喋るのを見ると、宏子は我慢がならない気がした。瑛子は瑛子で、自分の本心を素直に掴むことを知らず、同時に粗暴な形であらわされる娘の健全なものも分らず、ただ自尊心を傷けられたという憤怒を、偽善というような言葉の上に集中した。
「お前もこの頃はやりの物質論者だ」
到るところで耳目に触れるようになって来ている唯物的という言葉を、瑛子は間違った内容にとりちがえて云った。
「大方私が不自由なく食べていられるのがいけないとでも云うんだろう。父様に食わして貰っているくせにと云うんだろう。この家を今日までにしたのが父様一人の力だとでも思っているんなら、念のために云っておくがね。大間違いだよ」
思いやりと洞察とでこういう風に焦点がずって来たのを喰いとめて母を納得させ得るだけに宏子はあらゆる点で成長していなかった。いつしか地盤の移っていることは分っていても勢におされて母娘は、益々広汎な、根本的な問題に触れながら諍った。
間で一二度温室を見に行ったきり順二郎はずっと傍で、自分からは一言も口を挾まず、母と姉との嶮しい問答をきいていた。宏子がやがて急に気づいたように、
「さあさあ、順ちゃん、もうお休み」
と、置時計の方をすかすようにしながら云った。
「あしたはまたドイツ語だろう」
瑛子は、
「いいよ、いいよ。たまだもの、おきといで」
愛情と押しつよさをもって裾をひき据えるようにとめた。
「順二郎だってもう子供じゃないんだから、よくどっちが正しいかきいといで」
腰かけのところは灯のかげになっている。順二郎はふっくりした瞼の上を誰にも見咎められずかすかに赧らめた。
七
温室は床が煉瓦で、左右には、その中でこまかい芽のふき出している培養土の棚がある。順二郎は古い三脚をその煉瓦の通路のところへ持ちこんで休んでいた。この三脚へ腰をかけて、去年の秋姉の宏子が、高校へ入学した祝に温室一つ貰うなんてと非難めいて云った。その三脚であり、その温室である。
きのうから、二月という季節に稀なひどい南風であった。庭の敷石がびっしょり濡れて、嶮しい空を暗い雲が叢立って北へ北へと飛んでいる。アンテナを張っている線のガイシが、暗澹として凄く美しいその空の色との対照で油絵具の白をぬたくって描いたように異常に目立っている。
さっきから温室の前に立った順二郎が仰向いて眺めているのは、この荒天に、風にさからい、流されつつ舞っている一羽の鳶である。灰色の雲の走る中空で鳶は或る時は一枚の薄い板片のように見えた。それが或る角度へ変ると真黒に翼の形や、躯の形が浮立って見える。ずっと南の方の空にもう一羽翔んでいた。それはもっと強情に正面から風にさからっていて、暫く空の同じ点にやっと浮いていたと思うと、そのまま垂直に空の高みまで舞い上った。そして、見えなくなってしまった。そっちの空にサイカチの裸の梢が揺れていて、風は益々迅く雲を飛ばしている。荒れている早春の自然の風景の中には、順二郎の心に名状の出来ない喜悦と苦悩の混りあった感動を与える力が漲っていた。鳶が忽然として舞いあがってしまった。その後に雲ばかり走っている空の寂しさにさえ、彼の感情を牽きつけて陶酔させるようなものがあるのである。
絣の筒っぽに黒メリンスの兵児帯を巻きつけている順二郎は、温室の床の三脚に腰をおろし嵐の音に耳を傾けた。風の音は順二郎の心の中にもある。自然の嵐は威厳をもって圧倒的に正々堂々と、順二郎の内部の旋風はやや臆病に、逡巡をもって、しかも避け難い力に押されて、互に響き合い、ひきよせ合っているようだ。その年の順二郎と宏子の短い正月休暇は奇妙な工合に終った。或る晩、温室用の石炭の話が出た。台所の横にある炭小舎からいちいち運ぶのは面倒くさいから、温室の横へトタンのさしかけを作ろうと順二郎が云い出したのであった。
「じゃ大川へ電話をかけて人足でもよこさせなきゃなるまい?」瑛子が云った。
「いいえ。僕自分でやる。何でもないもん。――それに――僕温室のことではなるたけお金つかわないことにしたんだ」
順二郎の節倹なことは家じゅうに有名であった。植物の種を植木会社からとりよせるにしても二つ三つカタログを照らし合わせて、抜萃《ばっすい》をつくって、瑛子に書きつけを示し、これが一番いいから幾ら幾らと二円三円の金でも出して貰う。順二郎のは、しわいのではなくて、気質から来る周密なやりかたなのであった。そのときも瑛子は愛情と満足とを面に湛えて、息子を眺めた。
「そりゃ結構だけれど――」
不図、疑問を感じたらしく、
「でも何故――何か特別にそう思うわけがあるのかい」
そして、ふざけて、
「何か野心があるんじゃないのかい、こわい、こわい」
と云った。
「大丈夫よ母様。僕、何にも欲しがりゃしないんだから――温室だって僕考えなしでこしらえて貰ったけど、本当はこしらえない方が正しかったのかもしれないんだし」
順二郎が余り真面目にそう云ったので、瑛子の警戒心が目醒めた。
「誰かがそんなこと云ったのかい?」
「姉ちゃんといつか話した。そして僕、姉ちゃんの云うことが本当だと思った。――でも、折角こしらえて頂いたんだから僕出来るだけ無駄づかいしないようにして使うよ」
瑛子は、我知らず坐蒲団の上に坐り直して、羽織の袖口から袖口へと腕をさし交しにして暫く黙って考えていたが、やがて呼鈴を押した。
「宏子さんを呼んでおいで」
風呂から上ったばかりだった宏子が、珍しく元禄袖の飛絣を着て、羽織の紐を結びながら、
「なアに」
と入って来た。
「まあちょっとお坐り」
瑛子は、宏子を残酷だと云って攻めて、仕舞いには涙をこぼして怒った。
「この順二郎ってひとが、ほかに何か無駄なことでもしているんならともかく、花をつくるしか楽しみのない人じゃないか。それだのによくもお前は姉としてたった一つの弟のよろこびに毒を注げる! 私は順二郎を守るよ! 何処までもこの純なひとを母として守って見せる!」
宏子は大変当惑した。二人きりになったとき、宏子は真心からの心配を弟を見守る目にあらわして云った。
「ね順ちゃん、あなたしっかりしなくちゃ駄目よ。純だ純だって――本当に何だか心配だわ」
順二郎は、柔毛でうっすり黒い上唇と下唇とをキッと結び合わせて、宏子の云うことをきいていたが、
「僕、みんなの云うこと僕として考えて聞いているんだから心配しないで」
と云った。
「そりゃそうだわね、順ちゃんは軽薄じゃないわ。だけど……」
この休みの間に、宏子は弟と自分とのために学課以外の勉強の計画を立てて来ていた。そして、二人でふだん順二郎の机の周囲にはない雑誌や本を少しずつ読んだり、そのことについて喋ったりしたのであったが、啓蒙を目的に編輯されている一つの雑誌の表紙を凝っと眺めていて、順二郎が、
「僕、こういう絵、わからないなあ」
と云った。それは赤い大きいドタ靴が、ビール樽のような恰好のシルクハットに金鎖の髭男を踏まえようとしている絵であった。
宏子はすこし照れた表情で黙っていた。芸術品としての意味から順二郎が云っているのかと思った。そうだとすれば、画材は素朴にあつかわれていることを宏子も認めざるを得なかったから。しかし順二郎の意味は別のところにあった。
「僕、こういう気持がわからない。何故残酷なことをこっちからもしなきゃならないのか、そこがわからない。だって理論は人間の社会に正しいことをもって来ようとしているのに、何故そのために旧い悪いことをまたやらなけりゃならないんだろう。僕実に疑問だ」
弟の意味がはっきりして来るにつれ、宏子は、困ったような愕いたような目をだんだんに見開いて、
「だって順ちゃん」
と呻いた。
「だってさ、順ちゃん、右の頬っぺたをぶたれれば、左も、はいって出すと思える?」
「ちがう。僕だってきっとぶち返すんだと思う。だけど、僕には僕がそうしていいのかどうかが分らない。殴るってことがわるいならどっちが先だって後だって、わるいにきまってるのに」
順二郎は苦痛をもって云った。
「人間の理窟って、考え出されたようなところがある。絶対じゃないんだもの」
「――変だわ、順ちゃんの考え方、変だわ。目的だの意味だのがちがえばちがうじゃないの」
宏子は、彼女の及ぶ限り現実的な例で、順二郎のそういう実際の生活関係から物事を抽象してしまって考える傾向からひっぱり出そうとした。順二郎は従順であるが、宏子は愕然とさせる執拗さをもっている。今また彼が僕として考えて云々というのをきくと、再びその危険が宏子にひしひしと感じられるのであった。
「ね、順ちゃん、あなた、誰かしっかりした友達ないの? 何でも話せる友達ってないの? そういう人がいると思うなあ」
宏子がそう云っているとき、女中が来て、順二郎を階下へよんだ。思ったより手間がかかって書斎へ戻って来た。
「何だったの?」
「母様が、姉ちゃんと何話してるって――」
「…………」
宏子はいやな顔をした。
「姉ちゃんと話したこと、みんな聞かせろって……」
「そいであなた何て云ったの?」
「僕たち、正しいこと話してるんだから、誰にかくす必要もないと思う」
宏子はやや暫く黙っていた。
「とにかく順ちゃんは一風あるわ」
順二郎がほんとの友達というものを持っていないように思える、その原因もこんなところと関係がありそうにも思える。
宏子は、次
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