すって。級の心持としてしたいと思うんですが、どんなことを云ったらいいかしら」
「分ってるじゃないの。そんな送別会なんてつまらないと思っていますって、はっきり云ってよ」
 三輪が薄く紅をつけている唇を尖らして云った。
「全くだわ、形式じゃないの、ただうわべだけの。各級から幹事だけなんて、――そんなのあるもんか」
 がやがやしはじめた中で、宏子が自分の手を叩いて注意をあつめた。視線があつまると少しはにかんだ顔付になりながら、宏子は熱心に、
「級で云ってもらうことをきめておきましょうよ」と云った。「私は、飯田さんに是非このことだけ云ってほしいんです。それは、三田先生が、教科書以外のことについて話してくれたのが、どんなに本質的に私たちの学問になっているかっていうこと。そして、三田先生がこれからどこで教えても、学生は活きた知識を求めていることを決して忘れないでくれるように。学生は先生が考えているより判断力をもっているから、リンゼイの説だって私たちは鵜呑みにしてはいない。だから安心してくれるように、って。だから、学生はそういうことを理由に先生がやめさせられるとすれば、それには心から反対ですって、どうかそれだけは云って頂戴」
「本当にそうだわ、飯田さん、しっかり云ってね」
 徳山が、首をまげるようにして力を入れた。
「私たちの級では、三田先生に留任してもらうようにって要求を出したんだから、そのことも云った方がいいわ」
 土曜日の会には全学生の三分の二ぐらいが出た。学校の側からは柿内が出ている。三年の幹事が司会をした。窓際から三列目のテーブルに杉と並んでかけている宏子の眼のうちには、会の進行につれて消えてはまた燃える小さい火のようなものが閃いた。会場全体には、尊敬する三田を公然とテーブルの中央に眺めている単純な安堵の気分と、幾らか儀式っぽい皮肉な冷静さが交流していて、自分の心にある憤懣、学生の胸にあるいろんな気持が、そのままちっとも真直ぐあらわされていない。宏子にそれがもどかしかった。
 下の級から順に挨拶をして、飯田の番になった。飯田は大体たのまれた通りの意味を云ったが、言葉づかいは彼女流に角を削られた。「心から反対だわ」と云ったところが、「まことに残念でございます」と言われている。司会をやっていた三年生が挨拶のあとにつづいて、このほかに各級には一言ずつでも直接三田先生に感謝やお訣れの言葉を述べたい人があると思うが、もし三田先生が御迷惑でなかったら許してもらえまいかとつけ足した時には、満場が歓ばしい動揺と拍手とで鳴りわたった。杉は上気して、
「珍しいわね、三年のひと!」
と宏子に囁いた。宏子たちは遠方の席から眼を放さず張りきった期待で三田先生の挙止に注目した。三田は少し不意打の態で、どっちとも答えない。再び促したてるような待ち切れないような拍手が盛りかえして来た。その中で三田先生はテーブルの前に立った。そして学生の好意を丁寧に謝した。それから言葉を改めて、
「ただいま三年の方からお話しの出たことは、私としてまことにうれしいことですが、人数も多勢でいらっしゃるから、幹事の方々がそのお気持を十分代表していて下さるものとしてお受けして置いた方がよろしいと思います」
 終りを外国流に「ありがとうございました」と結んで席に復した。
 はじめの生彩は失われた。拍手が起った、宏子は拍手をする気になれなかった。三田先生はものごしで、やはり自分たち学生のそういうつよい表現を求めている気持を避けているのであった。
 散会になって、部屋へ戻って来ると、三輪が靴のまんま寝台の上にどたんと仰向けになりながら、
「あーあ、三田先生、か!」
と何かを自分の心から投げすてたような声の表情で呟いた。
「要するに先生[#「先生」に傍点]なんだなあ」
「あの先生は、ああいうところがあるわよ、自分のものわかりのいいところが自分ですきなんだもの」
 宏子も、むしゃくしゃしている早口で云った。
「友愛結婚の話のとき、私たちの質問をあの先生は分ってなかったわよ。リンゼイは折角キリスト教道徳の偽善に反対しながら、なぜ子供を生むことも出来ないようなアメリカの社会の事情まで研究して行かないんでしょうって私たちきいたでしょう? あの先生は、リンゼイがアングロサクソンだからそういう気質なんでしょうって云ったでしょう? そこなのよ!」
 徳山のような学生は溜息をついて、
「私、涙が出そうんなったわ」
と云った。
「三田先生、本当はあんなこと云いたかなかったのよ。……カキが頑張ってるんだもの、……なんて口惜しかったんでしょう、ねえ、そう思わない?」
 宏子にはそういう感じかたは出来ないのであった。
 夕飯後に、はる子が部屋へ来た。上瞼の凹んだまるで白粉っけのない顔で、癖で少し右肩を振るようにしながら、
「――惜しかった、やっとこさ三年があすこまでのり出したのに」
と云った。
「…………」
 今の場合でも、はる子は事柄全体を初めから終りまでひっくるめてそう云っているのであって、宏子も勿論その点では同感なのだが、三田の態度に対する不満な気持は、それとして在るのであった。腕組みをして、むっつりしている宏子の顔をはる子は暫く眺めていたが、やがて黙って宏子の肩を一つ情を罩《こ》めてたたいて出て行った。今にも始りそうで遂に始らずに終った学生たちの感情と行動の流れ。しかもそのかけひきでは学生たちがはぐらかされたという気分が、その夜は寮全体にぼんやりと漂っていた。
 宏子が手洗から部屋へ戻ろうとすると、
「あ、ちょっと! ちょっと、加賀山さん電話よ!」
 舎監室の横から学生の一人が手招きした。電話は家からであった。瑛子が出ていて、
「どうしているの」
と云った。
「きょうは夕方でも来るかと思って待っていたんだよ」
 では、今夜は田沢は来なかったのかもしれない。宏子はその瞬間軽くなって行く自分の心を感じて、嬉しさと悲しさの交った気持になった。この間の夜以来強いてもうちのことから心をはなそうとして暮していたのであった。
「来ないのかえ?」
 時計をのぞいて見た。七時すぎたばかりである。
「行こうかしら」
「おいでよ。そしてね、もしお友達にシュタイン夫人への手紙っていうのを持ってる人があったらちょっと借りて来ておくれ」
 宏子は、よく透る甲高い声を廊下に響かせながらききかえした。
「なあに? シュタインて――ゲーテの何か?」
「そうだろう。――じゃ、待っているからね。さよなら」
 瑛子はいろいろ文学の本を読むのである。宏子はシュタイン夫人への手紙というような本はどこでも見た覚えがなかったし、友達が持っているとも思えなかった。宏子はその足で柿内の部屋へ外泊許可を貰いに入った。

        六

 順二郎に金をかりて、宏子が黙って寄宿舎へ帰ってしまった夜からは二週間たっていた。
 動いていた学校の気分に一段落がついたことと、さっきの母の声にふくまれていたやさしい調子とで、久しぶりに敷石を踏んで我家の門を入ってゆく宏子の心持には、自分の靴音も何か新しく聞かれるような感じがあるのであった。
 部屋の重い扉をあけると、瑛子が、
「ああ、やっと来た」
 遠くからきいた声に響いていた暖かさのままにほぐれた笑顔で、いつもの正面の場処から娘を迎えた。
「ずいぶん、かかるんだねえ」
「すぐ出たのよ、あれから」
 順二郎が、傍の腰かけのところにいた。宏子は、この間の晩、自分たち姉弟が味った気持の記憶の上で、順二郎に向って首をうなずけながらちょっと表情をした。順二郎は、上瞼のふっくりした落付いた顔の表情を目につかないくらいかえたが、さりげなく、
「今そと風吹いてる?」
ときいた。
「少し吹いてるわ。なあぜ?」
「僕温室の窓をすこしあけすぎているかもしれないんだ」
 部屋には、今夜の瑛子の身のまわりにあると同じ平明な気分が湛えられている。宏子は母の横のところに坐って、テーブルの上へ両腕を組み合わせた上へ自分の顎をのっけた。
「何だろう、この人ったら。犬っころ見たいに――」
 瑛子はいかにも大きい娘を話相手としている調子で高輪の井上の悶着の話をしたりした。
「行って見ると、高山がいるっきりで、麗子ちゃんが台所をしている有様なんですもの、お話にならないよ、全く」
 元大臣をしていた人の細君が天理教に凝って、同級生であった瑛子を勧誘しに来たそうである。
「ああいう迷信がああいう階級へ入りこんでいるんだからねえ。――ラスプーチンだよ」
 真面目に慨歎してそう云ったので、宏子も順二郎も笑い出した。瑛子は父親が専門は文学であったが井上円了の心霊術に反対して立ち会い演説をやったという話をした。
「私は宗教なんか信じないね」
 瑛子は断言するように云ったが、その調子にはしんから冷静な性格でそれを信じないというには余り熱がありすぎて、却って宏子には一種の不安が感じられるのであった。
 そんな話をしているうちに、宏子は、電話口でさっき云われた本のことを思い出した。
「ああ、あのシュタイン夫人への手紙って何なの? そんな本があるの?」
「あるんじゃないのかえ?」
と逆に瑛子がききかえした。
「私、知らないなあ。ゲーテの伝記や何かのほかにあるのかしら――順ちゃん、知ってる?」
「僕しらないんだ」
「そりゃそうだわね、フランス語なんだから」
 そう云うと同時に、宏子は、母にそんなドイツの本のことを告げた人物が誰であるか判った気がした。田沢という名と結びつけられるとゲーテの有名な愛人であったシュタイン夫人へやった恋愛の書簡を集めたものに違いない本そのものが、何となくいや味っぽい光に照らし出されて来て、宏子は腹立たしいような気持になって来た。
「その中に、ゲーテが自分はカルヴィン派の聖餐で満足しなければならないって云っているんだって。――カルヴィン派って……どういうのかしらね」
「どうせキリスト教だわよ。母様は今も宗教なんか信じないっておっしゃるんだから、そんな聖餐なんかどうだっていいじゃないの」
 喉の中へかたまりがこみ上げて来るような感情で宏子は意識した意地わるさで云ったのであったが、瑛子は、普通でない娘のその調子に気づかない程自分の話題に気をとられていて、
「父様は、こういう話がまるでお分りにならないもんだから、田沢さんと話しているのがお気に入らないんだよ」
と親しみの口調でゆっくり云った。宏子は何となし唇を軽くかんだ。
「話しかただっていろいろあると思うわ」
「若い人ってものは率直だからね。……父様の分らない話でも何でもかまわずその場ではじめるもんだから」
 宏子は、
「あの人、率直なもんですか!」
 覚えず父親をかばって、田沢の顔を手でつきのけるように遮った。
「あの人は、父様が専門違いでそういう話には仲間に入れないのを知っているくせに、わざとやるのよ」
「千鶴子さんも、文学的な話の相手にはなれないんだってさ。――どっかに写真があったっけ」
 瑛子は手箱をひっぱり出して、封筒やハガキの間から、むき出しで入っていた小さい素人写真を出した。自分でちょっと眺めた後、唇の上に微かな軽蔑に似た表情を現しながら宏子の前によこした。手にはとらず、テーブルの上へ斜かいにおかれたままの写真へ宏子は暗い眼差を落した。
 夏草の中に佇んでいる田沢と細君とが撮っていた。背広を着てカンカン帽をかぶっている田沢の眼鏡の隅がキラリと日光に反射しているところが、宏子が好きになれないその人物の性格を表現しているようで不快であった。麻か何からしい少しだぶっとした単衣を着た小柄な、二十をほんのすこし出たばかり位の瘠せぎすな細君が、重心を片方の脚において、並んで立っていた。口許や額は淋しいひとのようだが、こもったような情熱が肩の落ちたその躯つき全体に溢れているのである。瑛子がわきから見ながら、
「貧弱なひとだねえ」
と云った。宏子はその言葉から残酷さを感じた。宏子は、やっぱり写真を手にとらないで、
「これ――誰がとったの」
「僕が田沢さんとこの裏でとってあげた」
「じゃ自分のとこへ
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