を、いそぎもしない歩調で歩いていると、うしろから静かに来た一台の自動車が少し宏子を追い抜いたところで、スーと左側へよって止った。車は宏子の鼻の先に止ったと同じだったので、思わず首をあげると、車の後窓から宏子の方を見ているのは泰造であった。泰造は、自分を認めた宏子に向って人指しゆびをちょっと挙げる合図をすると一緒に、短いいつもする口笛を鳴らした。すぐ無帽のまま腰をかがめて車を出ながら、運転手に、ぶらぶら歩いて帰るから行ってよろしい、と云った。
「どうしましたね?」
「今日はお父様珍しいのね」
「ああ」
 泰造は宏子の片方の腕をとって自身は道の外側を暫くだまって歩いていたが、やがて、
「丁度いいところで逢ったから話すがね」
 おだやかな、圧しつけるところのない、寧ろ心配りで愁わしげな調子さえ響く声で云った。
「実は昨日、或る人をよこして富岡がお前へ結婚を申込んだ。富岡は、お前にもその心持がある事実をもっていると云っているそうだが――」
 セイラア服の宏子は、黙りこくって頑固に自分の前を見つめて歩いた。泰造は、軽い咳のようなものをして続けた。
「儂《わし》は断ったよ。――あれはよくない。儂は
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