来た男に、はっきり断った。いいだろう?」
宏子は髪の根に汗のにじみ出すような心地で、
「ええ」
と云った。
「おっかさんには黙っていよう、また亢奮するといけないからね」
泰造は片手で執っている宏子の腕のところを、もう一つの自分の手のひらで軽くたたいた。
「心配しないでいいよ。お前はいい娘だ。儂はお前を信じているよ。お前にはまだよく分るまいが、人間は自分のねうちというものを知らなけりゃいけない。そしてそれを大切にすることを知っていなけりゃいけない。いいかい?」
それからは黙ったまま父娘が夕靄のかかりはじめた街路を家の方へ向ってゆっくり歩いた。もう家の門が見えるところまで来たとき、泰造が、もし煙草をふかしてでもいたなら、その吸殼をつよく地べたへたたきつける時の調子で
「あいつは、わざわざ第三者を入れてそういう話を持って来た。――」
と云った。
その時から六年経った。宏子は今これらのことを複雑な感情で思い出すのである。
学校前のバスの停留所のところは、片側が武蔵野らしい雑木林で、櫟《くぬぎ》の樹にまじって立てられている柱から燭光の弱い街燈が、白く埃をかぶった道端の笹を照らしている。
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