していたのであった。
「来ないのかえ?」
時計をのぞいて見た。七時すぎたばかりである。
「行こうかしら」
「おいでよ。そしてね、もしお友達にシュタイン夫人への手紙っていうのを持ってる人があったらちょっと借りて来ておくれ」
宏子は、よく透る甲高い声を廊下に響かせながらききかえした。
「なあに? シュタインて――ゲーテの何か?」
「そうだろう。――じゃ、待っているからね。さよなら」
瑛子はいろいろ文学の本を読むのである。宏子はシュタイン夫人への手紙というような本はどこでも見た覚えがなかったし、友達が持っているとも思えなかった。宏子はその足で柿内の部屋へ外泊許可を貰いに入った。
六
順二郎に金をかりて、宏子が黙って寄宿舎へ帰ってしまった夜からは二週間たっていた。
動いていた学校の気分に一段落がついたことと、さっきの母の声にふくまれていたやさしい調子とで、久しぶりに敷石を踏んで我家の門を入ってゆく宏子の心持には、自分の靴音も何か新しく聞かれるような感じがあるのであった。
部屋の重い扉をあけると、瑛子が、
「ああ、やっと来た」
遠くからきいた声に響いていた暖かさ
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