かかっているその色が今日の荒々しい灰色の空の下では、佐伯祐三の絵にあるような都会の裏町の趣を見せている。同じ都会の或る庭では竹藪を吹きざわめかせる季節はずれの南風は、重吉の部屋の在る町あたりでは、時々どっかでガワガワとトタンの煽られる音を立てている。表通りから細かい砂塵がガラスに吹き当てられた。重吉の故郷の家も、思えばこんな荒天に難航している小舟に似ていた。父親の源太郎が中央に突立って叱咤しているのであるが、その人自身絶望から希望へ、希望から絶望へと絶えずつきころがされて来た。そして、先ず家内の者が自分の命令に服さなければどうして他人を従えることが出来るかという熱烈な肉親の情と焦慮とで、源太郎は家族や使用人に暴力をふるった。その前に先ず酔っぱらってから――。
それは大抵夜であったから、源太郎の暗い店の前に町とも村ともつかないその近所の連中がたかって来て、面白そうにどたんばたんの騒ぎを見物した。重吉は、そういう時自分の頬っぺたを流れ落ちた涙の味を刻みつけられている。善良な、一本気な父親に狂態を演じさせる力を憎悪した。
重吉は、考えに沈んだときの癖で頭を心持右へかしげ、ゆったり大きいあぐらの片膝をゆすっていたが、やがてあり来りの馬蹄形の文鎮をのせてあった原稿紙をひきよせて万年筆をとり、母親と悌二とへの返事をかきはじめた。
重吉には自分より気の弱い悌二が、友達どもに気をひける気持も察しられた。しかし悌二も、卑屈でなく生きてゆくためには、貧困が恥辱ではないことを知らなければならない。重吉は思いやりをこめた兄らしさで悌二の心持に元気を与え、学校をあながち無理につづける必要もないと考える彼の意見を書いた。だが、もとよりそうしたからと云って僕はその金をまわして貰うことなどは考えてもいないよ。僕は今でさえ心苦しく思っているんだから。僕も自分の満足のためだけならば或は学校をとうにやめていたかもしれないくらいだ。三分の二ほど進んだ時、
「おう、いるかい」
二階に向って呼ぶ声がした。重吉は万年筆を持ったまま立って縁側から下の往来を見た。
「どうした」
「いいか」
「ああ」
今日は、口んなかまでじゃりじゃりだねと云いながら、階段をあがって来たのは光井である。光井は高校が重吉と同じで今は英文学にいた。
「今夜会えるだろうと思っていたよ」
重吉が机の上の原稿紙を片づけながら云った。
「山口が云ってたんだろう? きのう会った。例によって例のごとしだね、未来のプラウダ主筆だっていうんだから意気は壮とすべしさ」
煙草に火をつけて、光井は腹の下に坐蒲団をいれて畳へ腹這いになった。
「そう云えば、交叉点のところで各務の娘に会ったよ。むこうじゃ気がつかなかったらしいけど――」
「そうかい」
母方の遠縁で、重吉は暫くそこの家にいた。電気会社の重役のその家では、重吉に書生の仕事をさせるのを当然のことと考えていた。
光井はいくらか好奇心を動かされた表情で、
「こっちの方へ来ることなんかあるのかい」
ときいた。
「音楽の教師が、どっか、寺の裏の方にいるらしいんだ」
「ふーん。よらないのかい。ここにいるのは知ってるんだろう」
「よるもんか!」
重吉は健康な白い歯を見せて拘泥もしていないように笑い出した。
「年ごろんなって来たら、どうも傾向がわるいよ」
その言葉に光井も笑い出した。同級の、やはり研究会へ出たりしている学生の中には、美校の女学生と同棲している者などもある。光井自身は、女学校へ通うようになった妹と一軒もって暮しているのであった。光井は、腹の下にしいていた坐蒲団を今度は頭の後ろに枕にして、仰向きにころがりながら、
「女は影響するなあ」
真面目に感情をもって呟いた。
「塩田の生活なんて、何か暗いものがあるよ。あいつが研究会に割合出たりしているの、そういう暗いものからの反撥が作用していると思うね」
下宿している家の主婦の末っ子が、うしろから見ると塩田そっくりの歩きつきをする。そのことを光井はストリンドベリイの小説のように云った。
「俺は、あのちびが出て来ると何だかぞっとするね」
重吉自身は、少年らしい淡々とした初恋の思い出や、地方の中学生らしい汽車の乗降りのロマンティックな恋心や、高校時代のマントの翼の下に娘の肩を大事に入れてやって雪の夜道を歩きまわったような、責任感と少年ぽい恋着の錯綜した感傷をも通って来ていた。先輩に当る文芸批評家が、新しい時代の黎明と青春の愛惜と重吉の才能への傾倒を、恋愛的な情熱で表現して重吉を深く考えさせたこともあった。重吉は彼らしい率直さと誠意と熱情とで或る女と性的な経験をも持ったが、現在は彼の内部でそれがひとまず落着を得ていた。現在のところ重吉のそういう方面は単純化されていて、彼が自分の恋愛や結婚に対して、はっきり認
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