めるようになった新しい社会的意義と一緒に、急がず、注意をもってしかも青年らしい溌剌とした自然な関心で異性を眺める状態にいるのであった。
光井は、
「一本松の山本ね、あいつの妹がやっぱり東京へ来ているらしいんだが――知らないかい」
と云った。重吉は二つ三つ瞬きをしたがさり気なく答えた。
「どっか専門学校へ行ってるらしいよ」
特別な関心をはる子にもっているというのではなく、重吉は、はる子の活動の便宜や安全を保護したのであった。
二人の間には、文学談が栄え、やがて光井が、
「きのう、これも主筆にきいたんだが東高へ誰かが撒いたんだってね。講堂まで入ったんだってさ。仕様がないもんだね、みんなぽけーんとしているばっかりだったってさ」
重吉は唇を結んで、黙ったまままたちょっとあぐらの片膝をゆすった。程なく時計を見て、
「どうだい、飯をくって行かないかい」
光井は、両脚を揃えて一ふり振って起上りながら、
「もうそんな時間かい」
と髪を直した。
「どうせ例によって、はま鍋だろう?」
「あんまり馬鹿にしたもんでもないよ、この間読売にカロリー料理って出ていたよ」
「まあ何でもいいや。飯はあるのかい?」
「あるだろう。なけりゃ下から貰って来る」
七輪を机のわきに持ちこんで食べ終ると、重吉は戸棚をあけて、田舎風に青い綴じ糸が表に出ている褞袍《どてら》をぐるぐると畳んで新聞紙に包んだ。その下にハトロン紙で被いのある本を重ねて抱えて、階下へ降りた。靴をはきながら、重吉は膝をついて見送っている婆さんに、
「きょうは、宿直ですか?」
ときいた。
「ええ、そうなんでございますよ。何ですかお友達にたのまれましたそうでしてね、あなた」
「じゃ、おそくっても帰って来ますから」
「そうでございますか、いつもすみませんですねえ」
一足先へ格子の外へ出ていた光井が、
「宿直って――ほかに誰かおいてるのかい」
ときいた。
「ここの娘だ。――いくらかになるもんだからね、ひとの分もやってやるらしいんだ」
二人はやや風が落ちたかわりに時雨模様になって来た夜の街へ出て、大きい銀杏の樹が路の真中にある急な坂道を、本郷台に向って行く人混みの中にとけ込んだ。
底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
1979(昭和54)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
1951(昭和26)年5月発行
初出:「文芸春秋」
1937(昭和12)年8月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年4月22日作成
2003年7月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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