、本屋の二階でやっている文学研究会が今夜あるのであった。
「じゃ」
「うん」
 重吉は、東京でも有名な寺のある町角のところで電車を降りた。そして、二三丁先の、いつ見ても客のいたことのない印判屋の横丁を入って、古びた小さい二階家の格子をあけた。
 大工の後家である下の婆さんが襖の中から丁寧に重吉の挨拶にこたえながら、
「お手紙が来ていますよ、お机の上にのせておきました」
 重吉は、肩を左右にゆするような体癖で重い跫音を立てながら部屋へあがった。山口が、対にこしらえさせた白木の大本棚が六畳の壁際に置かれている。机の右手には三段になった飾りのない落つきのいい低い本棚がある。重吉は白キャラコの被いのついた薄い坐蒲団の上に制服のまんまあぐらをかいた。そして、左の掌でほこりっぽい顔を一撫でした後、机の手紙をとりあげた。一通は重吉の見馴れたハトロン紙にマル金醤油株式会社宇津支店と印刷した傍に、佐藤ケイとぎごちなく万年筆で書いた手紙。母親からの手紙であった。もう一通は、水色の西洋封筒が珍しいが弟の悌二の字である。封をすぐは切らないで、重吉は、二通の手紙に目をつけたまま肩をゆすってあぐらをかき直すような動作をした。
 重吉は、流し元へ下りて行って、ザブザブ顔を洗って来ると、制服の襟ホックをはずしたまま、今度は一気に二つの手紙を読んだ。商業へ通っていた悌二の汽車の定期が前学期で切れた。新しく買う都合がつかなかったので、毎日切符で通うことにして暫く辛抱して貰っていたところ、悌二がそれを苦にして学校へ行き渋りこの頃は学校をやめると云い出している。将来御許の片腕となって家運挽回をはげむにも今の世の中に小学きりではと思い、私は泣いて行ってくれと申せど、悌二は兄さんには僕の心持がきっと分ってもらえると申して承知しません。一応御許とも相談いたした上でと思い云々。父親の源太郎が、そんなことを云う意地気のない奴は学問なんどせんでええ! 馬車ひいておれ! と憤激している姿も、母親の手紙の文面に髣髴《ほうふつ》としているのであった。
 悌二の方は、いかにも永くかかって下書きしたのをまた次の晩電燈の下で永い時間かけて清書したらしく、消しの一つもない手紙に、ありどおりのいきさつと自分の心持とを披瀝していた。父上が意気地無い奴と罵られるのも無理はないと思います。けれども、僕には正直なところ、家が苦しい中からそんな思いをしてまで学校をやってゆくだけ自分の頭に自信がありません。幸僕も体の方は兄さんに負けないつもりだから、僕は兄さんの手足となって家のために働くつもりです。僕のようなたかの知れたものが、現在の家の事情でいくらかでも学資をつかうよりは、その分も兄さんにつかって貰った方が有意義だと信じるのですが如何でしょう。兄さんの将来の目ざましい成功は故郷の何人も期待して疑いません。中央の最高学府の生活は金もいるでしょうから、僕は兄さんが少しの金でも有益につかって下さると思えばうれしいです。
 重吉の刻みめの深い、しっかりした顔だちの上で優しさと苦しげな表情とが混った。家運挽回と結びつけて、少年時代から重吉にかけられているこの期待のために、重吉は決して単純な学生気質で暮せなかった。重吉の思い出のはじまりの情景には、或る午後ドタドタと土間に踏みこんで来た執達吏、家財道具や家の鴨居にまで貼られた差押えの札、家の前の往来で真昼間行われた競売とそのまわりの人だかりがやきつけられていた。
 高校時代、重吉は既に貧困の社会的な理由を理解していたし、それを踏んまえて立っていたが、不規則な食事のために旺盛な肉体は不調和を起して、奇妙な神経痛に苦しんだりした。
 親たちが、昔広国屋と称した名主の家名に愛着している心持や家運を挽回させようと日夜焦慮して、重吉を唯一の希望の門としていることも、競売を目撃し、その時の親たちの感情を幼いながら共にわかちあった彼には無理ないこととして思いやられているのであった。重吉が経済学部に籍をおいていること、傍ら文学の仕事に心を打ちこみ、なお進歩的な青年らしい社会の動きに参加している気持の裏には、これらの事情を悉く慎重に思いめぐらしての上での決意がこめられているのであった。今に重吉が井沢郡から代議士にうって出て見ろ、最高点をとるにきまっとる、と云う周囲の焙りつくような待ち遠しい目を身に受けながら、重吉は寡黙に、快活に温い頑強さで、自分がそれらの人々の希望している通りの者には決してならないことを自覚して暮しているのであった。
 重吉は、故郷の家の有様を思いながら、白カナキンの日よけのかかっている窓越しに外を眺めた。表通りの紙屋と豆腐屋の裏が重吉の窓に向っている。豆腐屋の裏二階の羽目はどういうわけかあくどい萌黄色のペンキで塗られていた。何年もの風雨で曝《さら》され、もはやはげ
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