るのか、どんな破局がおこるのか。そこには恐怖がある。それでも母は本心に従ってやったらいい。宏子は一生懸命で気力を集めてその考えに到達していた。だのに瑛子自身が、妙に体を捩《ねじ》くらしたような態度でいいかげんな風に喋るのを見ると、宏子は我慢がならない気がした。瑛子は瑛子で、自分の本心を素直に掴むことを知らず、同時に粗暴な形であらわされる娘の健全なものも分らず、ただ自尊心を傷けられたという憤怒を、偽善というような言葉の上に集中した。
「お前もこの頃はやりの物質論者だ」
 到るところで耳目に触れるようになって来ている唯物的という言葉を、瑛子は間違った内容にとりちがえて云った。
「大方私が不自由なく食べていられるのがいけないとでも云うんだろう。父様に食わして貰っているくせにと云うんだろう。この家を今日までにしたのが父様一人の力だとでも思っているんなら、念のために云っておくがね。大間違いだよ」
 思いやりと洞察とでこういう風に焦点がずって来たのを喰いとめて母を納得させ得るだけに宏子はあらゆる点で成長していなかった。いつしか地盤の移っていることは分っていても勢におされて母娘は、益々広汎な、根本的な問題に触れながら諍った。
 間で一二度温室を見に行ったきり順二郎はずっと傍で、自分からは一言も口を挾まず、母と姉との嶮しい問答をきいていた。宏子がやがて急に気づいたように、
「さあさあ、順ちゃん、もうお休み」
と、置時計の方をすかすようにしながら云った。
「あしたはまたドイツ語だろう」
 瑛子は、
「いいよ、いいよ。たまだもの、おきといで」
 愛情と押しつよさをもって裾をひき据えるようにとめた。
「順二郎だってもう子供じゃないんだから、よくどっちが正しいかきいといで」
 腰かけのところは灯のかげになっている。順二郎はふっくりした瞼の上を誰にも見咎められずかすかに赧らめた。

        七

 温室は床が煉瓦で、左右には、その中でこまかい芽のふき出している培養土の棚がある。順二郎は古い三脚をその煉瓦の通路のところへ持ちこんで休んでいた。この三脚へ腰をかけて、去年の秋姉の宏子が、高校へ入学した祝に温室一つ貰うなんてと非難めいて云った。その三脚であり、その温室である。
 きのうから、二月という季節に稀なひどい南風であった。庭の敷石がびっしょり濡れて、嶮しい空を暗い雲が叢立って北へ北へと飛んでいる。アンテナを張っている線のガイシが、暗澹として凄く美しいその空の色との対照で油絵具の白をぬたくって描いたように異常に目立っている。
 さっきから温室の前に立った順二郎が仰向いて眺めているのは、この荒天に、風にさからい、流されつつ舞っている一羽の鳶である。灰色の雲の走る中空で鳶は或る時は一枚の薄い板片のように見えた。それが或る角度へ変ると真黒に翼の形や、躯の形が浮立って見える。ずっと南の方の空にもう一羽翔んでいた。それはもっと強情に正面から風にさからっていて、暫く空の同じ点にやっと浮いていたと思うと、そのまま垂直に空の高みまで舞い上った。そして、見えなくなってしまった。そっちの空にサイカチの裸の梢が揺れていて、風は益々迅く雲を飛ばしている。荒れている早春の自然の風景の中には、順二郎の心に名状の出来ない喜悦と苦悩の混りあった感動を与える力が漲っていた。鳶が忽然として舞いあがってしまった。その後に雲ばかり走っている空の寂しさにさえ、彼の感情を牽きつけて陶酔させるようなものがあるのである。
 絣の筒っぽに黒メリンスの兵児帯を巻きつけている順二郎は、温室の床の三脚に腰をおろし嵐の音に耳を傾けた。風の音は順二郎の心の中にもある。自然の嵐は威厳をもって圧倒的に正々堂々と、順二郎の内部の旋風はやや臆病に、逡巡をもって、しかも避け難い力に押されて、互に響き合い、ひきよせ合っているようだ。その年の順二郎と宏子の短い正月休暇は奇妙な工合に終った。或る晩、温室用の石炭の話が出た。台所の横にある炭小舎からいちいち運ぶのは面倒くさいから、温室の横へトタンのさしかけを作ろうと順二郎が云い出したのであった。
「じゃ大川へ電話をかけて人足でもよこさせなきゃなるまい?」瑛子が云った。
「いいえ。僕自分でやる。何でもないもん。――それに――僕温室のことではなるたけお金つかわないことにしたんだ」
 順二郎の節倹なことは家じゅうに有名であった。植物の種を植木会社からとりよせるにしても二つ三つカタログを照らし合わせて、抜萃《ばっすい》をつくって、瑛子に書きつけを示し、これが一番いいから幾ら幾らと二円三円の金でも出して貰う。順二郎のは、しわいのではなくて、気質から来る周密なやりかたなのであった。そのときも瑛子は愛情と満足とを面に湛えて、息子を眺めた。
「そりゃ結構だけれど――」
 不図、疑問を感じた
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