されて来て、宏子は腹立たしいような気持になって来た。
「その中に、ゲーテが自分はカルヴィン派の聖餐で満足しなければならないって云っているんだって。――カルヴィン派って……どういうのかしらね」
「どうせキリスト教だわよ。母様は今も宗教なんか信じないっておっしゃるんだから、そんな聖餐なんかどうだっていいじゃないの」
喉の中へかたまりがこみ上げて来るような感情で宏子は意識した意地わるさで云ったのであったが、瑛子は、普通でない娘のその調子に気づかない程自分の話題に気をとられていて、
「父様は、こういう話がまるでお分りにならないもんだから、田沢さんと話しているのがお気に入らないんだよ」
と親しみの口調でゆっくり云った。宏子は何となし唇を軽くかんだ。
「話しかただっていろいろあると思うわ」
「若い人ってものは率直だからね。……父様の分らない話でも何でもかまわずその場ではじめるもんだから」
宏子は、
「あの人、率直なもんですか!」
覚えず父親をかばって、田沢の顔を手でつきのけるように遮った。
「あの人は、父様が専門違いでそういう話には仲間に入れないのを知っているくせに、わざとやるのよ」
「千鶴子さんも、文学的な話の相手にはなれないんだってさ。――どっかに写真があったっけ」
瑛子は手箱をひっぱり出して、封筒やハガキの間から、むき出しで入っていた小さい素人写真を出した。自分でちょっと眺めた後、唇の上に微かな軽蔑に似た表情を現しながら宏子の前によこした。手にはとらず、テーブルの上へ斜かいにおかれたままの写真へ宏子は暗い眼差を落した。
夏草の中に佇んでいる田沢と細君とが撮っていた。背広を着てカンカン帽をかぶっている田沢の眼鏡の隅がキラリと日光に反射しているところが、宏子が好きになれないその人物の性格を表現しているようで不快であった。麻か何からしい少しだぶっとした単衣を着た小柄な、二十をほんのすこし出たばかり位の瘠せぎすな細君が、重心を片方の脚において、並んで立っていた。口許や額は淋しいひとのようだが、こもったような情熱が肩の落ちたその躯つき全体に溢れているのである。瑛子がわきから見ながら、
「貧弱なひとだねえ」
と云った。宏子はその言葉から残酷さを感じた。宏子は、やっぱり写真を手にとらないで、
「これ――誰がとったの」
「僕が田沢さんとこの裏でとってあげた」
「じゃ自分のとこへ置いときゃいいじゃないか」
怒ってるような姉の声に順二郎は黙っている。
「――田沢さんたら、千鶴子さんに、お前と結婚さえしていなかったら奥さんと結婚したのになんて云うもんだから、この頃は田沢さんが出かけようとすると、泣いて格子に鍵をかけたりするんだってさ。――どうしてそんな夢中になれるんだろうね。私なんかとてもそんな気持にはなれないがねえ……」
そう云っている瑛子の眼と声の艶とは、それ等の言葉を全く裏切って、熱っぽい興味と亢奮と、宏子が知りつくしている独特の成熟したエネルギッシュな光彩を放っているのである。それらの言葉と顔付との間には瑛子が自覚していない貪婪なものが潜められていて、宏子は思わず母の手の上に自分の手をおいて、
「ねえ、母様、母様も少しは小説を読んでいる方《かた》なんだからね」
と、低い呻くような響で云った。
「そんな風に話すのおよしなさいよ、ね――何故嘘つくのよ!」
瑛子は心外らしく顔付をかえて大きい声で云った。
「いつ私が嘘をつきました――嘘は大嫌だよ」
「だってそうじゃありませんか。そんな気持になれないなんて――母様が……」
宏子は、弟がいるので意味深長な、鋭く悩みのこもった一瞥を母に与えた。
「私には云えないけど――現にそうじゃないの、自分でわかっていらっしゃる癖に。私にも母様のいろんな気持、わからなくはないのよ。そう世間並にだけ見てもいやしないわ。それだのに何故そうやって嘘をおっしゃるのよ。何故冷静ぶったりするのよ。そんなの偽善だわ――だから……」
宏子は自分を抑えて沈黙した。宏子は田沢と母との所謂《いわゆる》文学談そのものも、想像すれば、まざまざ同じ拵えものの偽善めいたものにしか思われないのであった。
「こんな暮しをしていて」
宏子は室内を視線でぐるりと示した。
「社会的には体面も満足させる良人をもっていて、自分の気持に対してまで偽善的だったりしたら、あんまり通俗小説だわ」
若くて青年ぽい良心の自覚やそれを譲るまいとする荒々しさから宏子は、溢れそうな涙を無理やりのみ込んだ猛烈さで、飛びかかるように云った。
「もし母様がそんなんなら、私、もう本当に、本当に、同情なんかしやしないから!」
宏子は女の歴史的な苦しみの一つとして母がこのことで苦しむのならば、娘である自分も堪え、皆も堪えさせようと心をきめて見ているつもりであった。どうな
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