らしく、
「でも何故――何か特別にそう思うわけがあるのかい」
 そして、ふざけて、
「何か野心があるんじゃないのかい、こわい、こわい」
と云った。
「大丈夫よ母様。僕、何にも欲しがりゃしないんだから――温室だって僕考えなしでこしらえて貰ったけど、本当はこしらえない方が正しかったのかもしれないんだし」
 順二郎が余り真面目にそう云ったので、瑛子の警戒心が目醒めた。
「誰かがそんなこと云ったのかい?」
「姉ちゃんといつか話した。そして僕、姉ちゃんの云うことが本当だと思った。――でも、折角こしらえて頂いたんだから僕出来るだけ無駄づかいしないようにして使うよ」
 瑛子は、我知らず坐蒲団の上に坐り直して、羽織の袖口から袖口へと腕をさし交しにして暫く黙って考えていたが、やがて呼鈴を押した。
「宏子さんを呼んでおいで」
 風呂から上ったばかりだった宏子が、珍しく元禄袖の飛絣を着て、羽織の紐を結びながら、
「なアに」
と入って来た。
「まあちょっとお坐り」
 瑛子は、宏子を残酷だと云って攻めて、仕舞いには涙をこぼして怒った。
「この順二郎ってひとが、ほかに何か無駄なことでもしているんならともかく、花をつくるしか楽しみのない人じゃないか。それだのによくもお前は姉としてたった一つの弟のよろこびに毒を注げる! 私は順二郎を守るよ! 何処までもこの純なひとを母として守って見せる!」
 宏子は大変当惑した。二人きりになったとき、宏子は真心からの心配を弟を見守る目にあらわして云った。
「ね順ちゃん、あなたしっかりしなくちゃ駄目よ。純だ純だって――本当に何だか心配だわ」
 順二郎は、柔毛でうっすり黒い上唇と下唇とをキッと結び合わせて、宏子の云うことをきいていたが、
「僕、みんなの云うこと僕として考えて聞いているんだから心配しないで」
と云った。
「そりゃそうだわね、順ちゃんは軽薄じゃないわ。だけど……」
 この休みの間に、宏子は弟と自分とのために学課以外の勉強の計画を立てて来ていた。そして、二人でふだん順二郎の机の周囲にはない雑誌や本を少しずつ読んだり、そのことについて喋ったりしたのであったが、啓蒙を目的に編輯されている一つの雑誌の表紙を凝っと眺めていて、順二郎が、
「僕、こういう絵、わからないなあ」
と云った。それは赤い大きいドタ靴が、ビール樽のような恰好のシルクハットに金鎖の髭男を踏まえようとしている絵であった。
 宏子はすこし照れた表情で黙っていた。芸術品としての意味から順二郎が云っているのかと思った。そうだとすれば、画材は素朴にあつかわれていることを宏子も認めざるを得なかったから。しかし順二郎の意味は別のところにあった。
「僕、こういう気持がわからない。何故残酷なことをこっちからもしなきゃならないのか、そこがわからない。だって理論は人間の社会に正しいことをもって来ようとしているのに、何故そのために旧い悪いことをまたやらなけりゃならないんだろう。僕実に疑問だ」
 弟の意味がはっきりして来るにつれ、宏子は、困ったような愕いたような目をだんだんに見開いて、
「だって順ちゃん」
と呻いた。
「だってさ、順ちゃん、右の頬っぺたをぶたれれば、左も、はいって出すと思える?」
「ちがう。僕だってきっとぶち返すんだと思う。だけど、僕には僕がそうしていいのかどうかが分らない。殴るってことがわるいならどっちが先だって後だって、わるいにきまってるのに」
 順二郎は苦痛をもって云った。
「人間の理窟って、考え出されたようなところがある。絶対じゃないんだもの」
「――変だわ、順ちゃんの考え方、変だわ。目的だの意味だのがちがえばちがうじゃないの」
 宏子は、彼女の及ぶ限り現実的な例で、順二郎のそういう実際の生活関係から物事を抽象してしまって考える傾向からひっぱり出そうとした。順二郎は従順であるが、宏子は愕然とさせる執拗さをもっている。今また彼が僕として考えて云々というのをきくと、再びその危険が宏子にひしひしと感じられるのであった。
「ね、順ちゃん、あなた、誰かしっかりした友達ないの? 何でも話せる友達ってないの? そういう人がいると思うなあ」
 宏子がそう云っているとき、女中が来て、順二郎を階下へよんだ。思ったより手間がかかって書斎へ戻って来た。
「何だったの?」
「母様が、姉ちゃんと何話してるって――」
「…………」
 宏子はいやな顔をした。
「姉ちゃんと話したこと、みんな聞かせろって……」
「そいであなた何て云ったの?」
「僕たち、正しいこと話してるんだから、誰にかくす必要もないと思う」
 宏子はやや暫く黙っていた。
「とにかく順ちゃんは一風あるわ」
 順二郎がほんとの友達というものを持っていないように思える、その原因もこんなところと関係がありそうにも思える。
 宏子は、次
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