それ等が互に重なり、絡み、解ける間に、宏子の心の中にはおのずから包括的な結論が生じ、次第に複雑な生活の推進力のようなものに形成されて、はる子が理論で示す方向に心持から一致して行くのである。そして、一致したとなると、宏子の天性はいくらか子供らしいくらい自分の認めたものに対して誠意をもつのであった。

        四

 夜なかの三時の古川橋へ向う大通りを、一台の自動車が落付いたスピードで進んで来た。ルーム・ランプに照らされて一方の隅に浮紋レースの肩掛をした瑛子が、背中にクッションを当てがって目を瞑っている。かさばらない縮緬の袱紗包を隔てた一方の隅に、泰造が左手を肱の下へかって折々右手の拇指と人さし指で唇の両端を押えるような摘むような恰好をしながら両脚を行儀よく前に並べかけている。その泰造の顔にも、疲労の色があらわれていた。
 古川橋の交叉点へ近づいた時、通行の途絶えた暗い、昼間より広く見える軌道のところに三つ四つ入り乱れている丸提灯の赤い灯かげが見えた。自動車は更にスピードを落して静かに近よって行くと、行手の途の上で一つの提灯が大きく左右にふられ前の車もそこで止っている。非常警戒であった。顎紐をかけた巻ゲートルの警官が一人は運転手の窓のところから内部をのぞき込み何か云った。運転手が、ハアそうですと答えている。同じ服装のもう一人の警官が車室のドアを外からあけた。
「失礼します」
 泰造は、元の姿勢のまま、挨拶するように軽く人指し指を動かした。瑛子は、白粉のある瞼を薄すりあけたが、またそれを瞑った。
 バタンとドアがしめられ、さっき左右にふられた提灯が、縦に大きく動いて、前のも動き出し、泰造夫妻の自動車は再び平らかな、むらのない、おとなしい速力で進みはじめた。
 東京もこの時間には短い眠りに入っている。市場へ野菜物を運び出すトラックなどが乱暴に弾みながら電車軌道の上を疾走してゆくのに遭う。
 瑛子が背中をよじってクッションの工合をなおしながら、
「おさわさんにも全く困りますねえ」
 眼をつむっていた間じゅう、そのことを考えつづけていたような声の表情で云った。
「夜よなか、こうして呼びつけるなんて――大体あなた、勇蔵さんにもっとちゃんとした態度をお見せにならなけりゃ駄目ですよ。さわ子もてきぱきした性質でないことは認めるなんて――勇蔵さんはああいう機敏な男だから、兄さんもそう思うならって、今更おさわさんを戻されたらあなたどうなさいます?――私は御免ですよ」
 その晩、十二時時分になって白金の井上から電話がかかった。夫婦の間がもめて細君のさわ子がどうしても兄さん達に話をきいて貰うと云って手に負えないからと、勇蔵自身が電話口に立って、当惑を音声の響に現した。
 何しろ子供たちまで皆寝かさないでいる有様だもんだから、と如何にも自身の社会的な地位に対しても笑止げに云った。勇蔵は日本で屈指な生命保険会社の常務その他をやっていた。
 瑛子はくたびれて引きあげて来る途々、りゅうとした大島の揃いをちっとも引立たせず衿元などじじむさく着て、顔を充血させ、むくんだように見えたさわ子のみっともない様子を思い起した。どこから見ても粋な身じんまくのよさで、髪を真中からキッチリとわけている世間で美男という勇蔵の遣りてらしい風貌と、何というはげしい対照だろう。
 この夫妻の悶着は今にはじまったことではなかった。勇蔵の容貌と職業と地位とは、さわ子と結婚してからこれまでの二十年間にも度々細君の嫉妬を刺戟した。今度の諍いは是迄より一層深刻であり性質も重大であった。自宅ではさわ子が少し気の利く女中は片端から出してしまったりして来客に対してさえ世間並の接待が出来かねる、客は一切よそですることにしたと云い渡した。それが去年ごろのことである。高輪の海を見晴す芝生のある家は四人の子供らと、それ以来益々感情をもつれさせたさわ子との生活場所となり、主人の勇蔵は夜から朝までをここで暮していた。一昨日の午後高島屋から大森、井上様とした女物のお召が届いた。それは、さわ子の注文したものでもなかったし、惣領娘の柄でもなかった。一見花柳界好みの品であった。それが、今夜加賀山夫婦に徹夜をさせる原因となった。
 さわ子は、泣く涙はもう流し切って半ば引攣ったような眼を勇蔵に据え、激しい愛着が体の顫える程の憎らしさにかわっている声で、
「さあ、兄さんや嫂さんが来たんだからのがしゃしません。何処にその女をかこったんです」
とむきだしに迫った。
「どうもこれなんだから困る」
 勇蔵は、敏活な表情の上に当惑の色を浮べているだけで、極めて平静にゆとりをもって加賀山夫婦を顧みた。
「だから云ってきかした通りさ。東京に井上という苗字の家は何百軒かある。電話帳を見なさい。くさる程ある。それが偶然間違ったからって、俺
前へ 次へ
全19ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング