っている。
「どうだった、会えた?」
と宏子は当らずさわらずに訊いた。
「会えたわ。三田先生だってやめたくなんか、ちっともないのよ」
 徳山が意気沮喪したように片手をあげて自分のおでこを擦った。
「でも――」
「そりゃ三田先生としては、自分の立場として皆おとなしく勉強してくれとしか云えないにきまっていますよ」
 はる子がつよい口調で云った。
「宗教問題が絡んでいるのよ。三田先生、あっちにいた時教会を脱退したんだって。それが問題になって、ミス・ソーヤーなんかが理事会でごねたらしい。勿論民公がたきつけているのさ」
「ここは神学校じゃないわ」
 激しく一人が云った。
「三田先生を惜しがるのがいけないんなら、もっとどしどしほかに新鮮な先生を入れてくれればいいじゃないの。お祈りしちゃ啀《いが》み合っているなんて、それこそ矛盾《ムジン》してる!」
 皆苦笑いした。カキはいつも矛盾をムジンしているというのである。
 次の日は、予科が三田を訪問した。宏子の組では、その日の第一時間目が戸田だったので、十五分間貰って、三田を訪問した次第を教室で報告した。そして、この組として三田の留任を要求する意見をまとめた。
 水曜日の昼休みに校長の沼田が特別に学生たちを講堂に集めて学生の本分に就て訓話のようなことをやった。沼田は地味な束髪にセルロイドの櫛をさしたいつもの姿で、大講壇のところに立ち、声に力をこめようとする毎に、皮膚の薄い小さいままに萎んだ気力のとぼしい下顎を震わした。四方八方ひたすら事なかれとばかり気を使っている。その気づかいが体にいっぱいであった。その年は、男子の学校ばかりでなく、女子の専門学校にも紛擾があった年である。三々五々講堂から立ち去る時の大部分の学生の顔には或る焦立たしさ、語られない軽蔑の色があった。
 宏子が下を向いて、靴の先で砂利を蹴りながら中庭を来かかると、追いつきながら、
「加賀山さん」
 声をかけたのはふだん余り親密でもない塚元であった。塚元は、ひそめた声で、
「ねえ、どうなるんでしょう、私心配だわ」
と四辺を憚るように云った。
「何か始まるんじゃないのかしら?」
「――どうしてそんなこと私にきくの?」
 宏子は訝《いぶか》しそうな観察的な目をした。
「あなたのわかっていることしか知りゃしないわ」
「私困っちゃう。――私実は皆さんと違う境遇なの。私の学費は伯父が出しているんです、下の弟妹たちを私が見てやらなけりゃならないもんだから。卑怯かもしれないけれど、もし私どうにかされたりすると本当に困るわ」宏子は返事のしようもなかった。
「――大丈夫なのかしら」
「私にきいたって、無理だわ、そうでしょう?」
 塚元の言葉は、何だかねばっこい不快な感じを宏子に与えた。そんなことがあってから五日ばかり後、宏子は再び思いがけない上級の川原にタイプライタア練習室の外で呼びとめられた。川原は、
「ちょっと、加賀山さん『欅』のことで用があるんだけれど」
と、宏子を、レコードに合わして何台ものタイプライタアが鳴っている壁の外の不用なテーブルなどが重ねてある一隅へつれ込んだ。
「あのね、妙なこときくようだけれど、おととい、いつもの、やったんでしょう? はる子さん何故だか今度は私に知らして下さらなかったんですけど……」
 当惑を感じながら宏子は揺がない注意を集中した視線で川原の浅黒い顔を見守った。
「はる子さん、何故知らして下さらなかったんでしょう」
 偽りでない苦しげな表情が、頬骨の高いどっちかというと不器量な川原の面に湛えられた。
「私何だか……苦しいの! 私、何かしたんでしょうか、あなたに分らないかしら。分ったら教えて下さらない、ね?」
 苦痛を感じながら宏子は、
「おとといってのは私も知らないんですけど――何か都合があったんじゃないのかしら」
と事実とは多少違う答えをした。
 これらの細かいながらそれぞれの原因や内容をもった出来事は、学校内の動揺している空気と共に宏子の心に深く印象され、蓄積されて行った。はる子は、目立たないようにと苦心しながら屡々《しばしば》外出した。そして宏子は、その間にはる子のために作文の代作をし、教科書に書入れをしてやる。これらの時期を通じ、宏子は自分の性質とはる子の性格との相異と、相異しながらまたどんなに近いかということをこれ迄よりはっきりと自覚した。同じ経験に出会っても、はる子はそのことからじかに自分の感情を動かされることがないらしく、すっかり順序のきまっている考えかたに従ってそのことの性質、筋とでもいうようなものを抽き出して、その対策に何の躊躇もなく頭が向いて行く。学校の空気が動き出して以来、はる子のこの特長は緊張して目立った。宏子の方はそうでなかった。一つずつの印象が、その情景、眼付、響のまま鮮明に心にのこった。
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