していた二つ三つの単語を字引で調べたり、万年筆のインクの工合を直したり、宏子もそれ程三田に傾倒しているというのではなかったけれども、やはりその朝は特別な待ち心地でマンスフィールドの短篇集の今読みかけているところをぼんやりめくっていた。
しーんとしている中でやがて、誰かが、
「どうしたんでしょう、もう十分すぎよ」
と云った。そう大きい声で云ったのでもなかったろうが、その声は朝の明るい不安な予期に充ち満ちている教室の空気を徹して、はっきりと響いた。
「――本当にもういらっしゃらないのかしらん」
訴えるような声で云いながら徳山須賀子が自分の席から三田がしめていると同じ木彫りの丸いバックルをつけている細い胴をねじって、ぐるりを見まわした。
後方の席にいるはる子が、その時、
「飯田さん、学務へ行ってきいて来なさいよ」
平静な、確信をもっている言調で云った。
「だって――」
飯田は、自分が三田党でないからと云うばかりでなく、その朝は何かをはらんでいるような組全体の空気を感じて漠然としりごみした。
「幹事さんていうものは、こういうときこそいるものなのよ」
皮肉そうにそう云ったのは、三輪である。
「よ、聞いていらっしゃいよ、ただ待っちゃいられないもの」
声々に後を押されるようにしてドアの外へ消えた飯田は、すぐ戻って来て、
「欠席ですって」教室じゅうを見廻しながら、告げられたことをただ伝えるという顔で云った。
「自習にして下さいって」
「じゃ、いよいよ本当なんだわ、まア! どうしましょう」
「何て滅茶なんでしょう」
「今更あんなことを口実にするなんて、卑怯だわ。生徒に人気があるのがいけないんなら、戸田先生なんかどうするの。リンゼイどころじゃないじゃありませんか。随分馬鹿にしてると思うわ!」
三田がやめさせられるようになった真の原因が、教師間の勢力争いであることは、学生達にも推察された。第一代の校長の死後は、古参卒業生で教師をしている者の間から校長が就任するならわしで、現校長の沼田美子の派と次の校長を目ざす石川民子の派とは陰険に対立していた。石川がバッサア女子大学の学位しか持っていないのに、新帰朝の三田がバルティモア大学の学士を持っている。その三田は沼田の後輩である。それだけでも三田の立場が難しくて危いことは予想されるのである。
学生たちにはそういう葛藤が日頃から不合理で不愉快に思われているのに、やめさせる理由としてリンゼイの説を三田が学生に説明したことがあげられたという一事が感情の激昂をつのらせた。教室には自習を始める気分など無かった。大半の学生が席にかけたまま体をねじって円をこしらえ、その事件について喋り出した。徳山のように女学生らしい崇拝から三田の不当な馘首を怒り悲しむもの。学校政治の内輪もめに、そんな思想的なような口実をこじつけようとする学校の遣り方を憤慨する者。いろいろではあったが、学校が学生たちや教師をこんな事でまで圧えつけようとする事に対する反撥は、それ等すべての感情を包括する学生生活というものへの一つの公の不満なのであった。
「私くやしいから石川民公の時間なんぞ、出てやらないからいいわ!」
徳山が涙を指先で拭きながらそう云った。
「そんなことすりゃ、民公ホクホクだわよ。よろこんであなたを落すだけだわ」
井筒が腹立たしそうに答えた。
「ねえ、だって、何とかならないのかしらん。どうして三田先生おとなしく引っこんでるんでしょう。ねえ、どうしてそんなことはいやだと頑張らないんでしょう。ねえ、三田先生だって私たちがこんなに思ってるのがわかれば、きっと何とかなさるわ」
「今日の放課後でも、三田先生のところへ行って見たらいいわ、そうすりゃ少し様子がわかるから」
級の意志を代表するのだからと云って、この有志訪問に幹事の飯田も参加させられた。
予科では、三田の出る筈だった時間に、カキがやって来て、三田先生は一身上の都合で地方へ転任するのだから、いろんな噂を信じないようにと云って、自習を暫く監督して行った。この彌縫《びほう》策は翌日になって予科全体をすっかり怒らせる結果になった。カキが公然と予科を騙したこと、子供扱いにしたことが予科のみんなをおこらせた。
三年はその日は食堂などでも一般に妙に落付いていて、よそよそしい態度を示した。
宏子は三田の家を訪問する仲間には入らなかった。それは相談の上のことであった。杉も残る組にまわった。はる子はグループをそういう風に分けた。前の晩に打合わせはされていた。
門限ぎりぎりに、渋谷にある三田の家へ行った連中が戻って来た。宏子は緊張した期待をもって徳山の部屋へ行って見た。寝台の上に四五人、デスクの前の椅子のところに徳山とはる子、杉などがいて、どの顔の上にも昼間とは違う憤慨と当惑の色が漂
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