くっきりとした二重瞼の眼を見張るようにして杉が、
「あなたどっか工合がわるいの?」
ときいた。
「どうして?」
「食堂で沖がカキ[#「カキ」に傍点]に何か云ってたから――」
宏子は、黙ったまま肩をすくめた。
「本当はきのう泊るつもりで家へ行ったんだけれど、急に帰って来ちゃったもんだから」
「ふーん」
一晩睡って眼を醒した今でも、宏子の心の中には家での印象が一杯に、重く複雑にのこされている。杉は真率で勝気なところもある可愛い娘であるが、その天性は、こうして相対している宏子がそんなこと迄うちあけたいと思うだけの何かの力を欠いているのであった。
起き出して宏子は寝台を整え始めた。それをよけて窓を背にして靠《もた》れながら杉は、
「あたし今日兄さんのところへ行こうかと思ってたんだけれど、やめよう」
気落ちしたように云った。
「どうして?」
「つまんないんですもの――お洗濯ばっかりしてやって帰って来るなんて。――それでも少しはよろこんで呉れるんならいいけれど、まるで当然みたいな顔をしてるんだもの」
杉の家は故郷で代々医者であった。後継ぎの兄はアパート住居で慈恵に通っていた。
「どうしてあんな謡曲なんか好きなんでしょう。若い癖して、ねえ。全くくさくさしちゃうわ、あたし……」
杉と宏子は連立って部屋を出た。半分開けっぱなしになっているドアの隙間から、明るい室内の空気が照るように派手な友禅の羽織の後姿が見えたり、階段の中途で一人は上に一人は下に立ち止って顔を向けあって何か喋っている、両方ともが広幅帯をきっちり胸のところにしめていたり。ふだん主に洋服で暮しているここの学生は日曜日には半数以上着物になって、新しい足袋や袂をぎごちなさが珍しくうれしそうに、ざわめいているのであった。
洗面所のところで予科の学生が、ふだん畳んでしまわれてばかりいるのできっちり折目の立った銘仙の長い二つの袂を肩の上へ掬《すく》いあげて、
「あらあ、いやだわ、私。本当に大丈夫かしら、盲腸になんないかしら。――いやだわあ」
としきりに水をのんでいる。間違えて果物の種をのんだのである。
社交室では、祇園小唄のようなレコードが鳴っていて、それに合わせて女同士六組ばかりがダンスをしている。
一歩外へ出れば、晩秋の畑と雑木林とが地平線まで広闊に拡っていて、あたりには町並もなかったから、日曜日の午後の女学生たちのこういうとりとめない色彩の溢れたざわめきは、周囲と切りはなされて、無形の柵の中に囲われている一団のような感じを与えるのであった。
奥庭の、ヒマラヤ杉のかげにある日だまりのベンチのところで演劇部のものがクリスマスにやる英語芝居の科白《せりふ》を諳誦していた。
「おお! マリア! 見たか? お前は確に見たか?」
一つの声が英語でそう問いつめよった。すると、その答えをするべきマリアが突然日本語になって、声を落しながらも十分聞きとれるように特別に抑揚をつけて、
「ええ見ましてすとも」
と答えた。
「上海へ着きますとねえ、マア支那人ばっかりいたんでございますよ」
シーッ! 圧えても圧えても鎮まることの出来ない生気溢れる笑いが続いた。カキ、即ち柿内ナミという生徒監が先頃上海視察に行って、帰った時講堂に学生を集めて報告をした。その第一声がこの近頃の傑作である上海へ着きますとねえ、なのであった。
お八つの時間に、日曜日らしくお汁粉が出された。食堂を出て、今日は店番をしている人のいない購買組合の店のところへ来かかった時、
「ちょっと! ちょっとってば!」
はる子がうしろから小走りにかけて来て、宏子の肩をつかまえた。
「知ってる? 三田先生やめさせられるらしいのよ」
「ほんと?」
折からその食堂からの大廊下をぞろぞろと通りがかっていた学生たちが、
「三田先生がどうしたって?」
「なんなの」
「どこできいたの?」
ぐるりと集って来てはる子のまわりを取巻いた。
三
三田敦子が校長の私宅へ呼ばれて辞職を勧告されたということ、その理由として、アメリカから帰ったばかりである三田が教室で学生にベン・ビー・リンゼイの友愛結婚の話をしたことが理事会の意見としてあげられたという噂は、初めはまさかという気分で受取られた。
然し、月曜日の朝、それとなく待ちかねていた三田党の学生の目に、三田敦子の大学生っぽい白いカラアの姿が見当らなかったことは、成行きに関心を抱いていた学生達の感情に真面目な憂慮を生んだ。十時から三田の訳読があることになっている宏子たちの組がB教室に入った時、その危惧と憤慨との混りあった女学生たちの緊張は、頂点に達した。
三田を尊敬している学生の多いこの組は、きっちり時間に席についた。そして、静かに、大部分のものが刻々に待ちながら、或る者は引きのこ
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