「――惜しかった、やっとこさ三年があすこまでのり出したのに」
と云った。
「…………」
 今の場合でも、はる子は事柄全体を初めから終りまでひっくるめてそう云っているのであって、宏子も勿論その点では同感なのだが、三田の態度に対する不満な気持は、それとして在るのであった。腕組みをして、むっつりしている宏子の顔をはる子は暫く眺めていたが、やがて黙って宏子の肩を一つ情を罩《こ》めてたたいて出て行った。今にも始りそうで遂に始らずに終った学生たちの感情と行動の流れ。しかもそのかけひきでは学生たちがはぐらかされたという気分が、その夜は寮全体にぼんやりと漂っていた。
 宏子が手洗から部屋へ戻ろうとすると、
「あ、ちょっと! ちょっと、加賀山さん電話よ!」
 舎監室の横から学生の一人が手招きした。電話は家からであった。瑛子が出ていて、
「どうしているの」
と云った。
「きょうは夕方でも来るかと思って待っていたんだよ」
 では、今夜は田沢は来なかったのかもしれない。宏子はその瞬間軽くなって行く自分の心を感じて、嬉しさと悲しさの交った気持になった。この間の夜以来強いてもうちのことから心をはなそうとして暮していたのであった。
「来ないのかえ?」
 時計をのぞいて見た。七時すぎたばかりである。
「行こうかしら」
「おいでよ。そしてね、もしお友達にシュタイン夫人への手紙っていうのを持ってる人があったらちょっと借りて来ておくれ」
 宏子は、よく透る甲高い声を廊下に響かせながらききかえした。
「なあに? シュタインて――ゲーテの何か?」
「そうだろう。――じゃ、待っているからね。さよなら」
 瑛子はいろいろ文学の本を読むのである。宏子はシュタイン夫人への手紙というような本はどこでも見た覚えがなかったし、友達が持っているとも思えなかった。宏子はその足で柿内の部屋へ外泊許可を貰いに入った。

        六

 順二郎に金をかりて、宏子が黙って寄宿舎へ帰ってしまった夜からは二週間たっていた。
 動いていた学校の気分に一段落がついたことと、さっきの母の声にふくまれていたやさしい調子とで、久しぶりに敷石を踏んで我家の門を入ってゆく宏子の心持には、自分の靴音も何か新しく聞かれるような感じがあるのであった。
 部屋の重い扉をあけると、瑛子が、
「ああ、やっと来た」
 遠くからきいた声に響いていた暖かさ
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