のままにほぐれた笑顔で、いつもの正面の場処から娘を迎えた。
「ずいぶん、かかるんだねえ」
「すぐ出たのよ、あれから」
 順二郎が、傍の腰かけのところにいた。宏子は、この間の晩、自分たち姉弟が味った気持の記憶の上で、順二郎に向って首をうなずけながらちょっと表情をした。順二郎は、上瞼のふっくりした落付いた顔の表情を目につかないくらいかえたが、さりげなく、
「今そと風吹いてる?」
ときいた。
「少し吹いてるわ。なあぜ?」
「僕温室の窓をすこしあけすぎているかもしれないんだ」
 部屋には、今夜の瑛子の身のまわりにあると同じ平明な気分が湛えられている。宏子は母の横のところに坐って、テーブルの上へ両腕を組み合わせた上へ自分の顎をのっけた。
「何だろう、この人ったら。犬っころ見たいに――」
 瑛子はいかにも大きい娘を話相手としている調子で高輪の井上の悶着の話をしたりした。
「行って見ると、高山がいるっきりで、麗子ちゃんが台所をしている有様なんですもの、お話にならないよ、全く」
 元大臣をしていた人の細君が天理教に凝って、同級生であった瑛子を勧誘しに来たそうである。
「ああいう迷信がああいう階級へ入りこんでいるんだからねえ。――ラスプーチンだよ」
 真面目に慨歎してそう云ったので、宏子も順二郎も笑い出した。瑛子は父親が専門は文学であったが井上円了の心霊術に反対して立ち会い演説をやったという話をした。
「私は宗教なんか信じないね」
 瑛子は断言するように云ったが、その調子にはしんから冷静な性格でそれを信じないというには余り熱がありすぎて、却って宏子には一種の不安が感じられるのであった。
 そんな話をしているうちに、宏子は、電話口でさっき云われた本のことを思い出した。
「ああ、あのシュタイン夫人への手紙って何なの? そんな本があるの?」
「あるんじゃないのかえ?」
と逆に瑛子がききかえした。
「私、知らないなあ。ゲーテの伝記や何かのほかにあるのかしら――順ちゃん、知ってる?」
「僕しらないんだ」
「そりゃそうだわね、フランス語なんだから」
 そう云うと同時に、宏子は、母にそんなドイツの本のことを告げた人物が誰であるか判った気がした。田沢という名と結びつけられるとゲーテの有名な愛人であったシュタイン夫人へやった恋愛の書簡を集めたものに違いない本そのものが、何となくいや味っぽい光に照らし出
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