って引上げたのであったが、そのことで、彼は明朝早々、その銀行を動かしている或る財閥を訪問しなければならなかった。小さいようでもこの出来事は、この二年間、日本の財閥間に生じた或る微妙な勢力の移動を語っていることを、泰造は永年の経験で勘づいているのであった。
瑛子は、泰造の心の中の計画については何も知らなかった。良人の跫音をききながら、白い疲れた瑛子の顔に、今は誰憚るところのない倦怠と嫌悪の色が漲った。瑛子には、高輪の夫婦のごたごたそのものも不愉快であったし、それに対する泰造の態度も気にくわなかった。泰造には深いところがない。思索的なところがない。八方美人である。日頃瑛子は良人をそういう風に観てあき足りないでいるのであったが、今夜は、泰造が井上に対して一向圧しのきく態度を示さなかったことが二重にいやな気がした。そこには井上と泰造との男のきれ工合をおのずから比較して眺めた女の虚栄心めいたものと混って、瑛子らしく、男の勝手な振舞いは男の相見互のようなものでいい加減におさめようとする泰造が、はがゆく思われた。
こんなことで夜半に帰って来たのに、泰造はああやって何も考えないで直ぐ寝てしまえる。妻としんみり話そうとする何の問題も感じて来ていない。泰造にはそういう味のある深みがないと焦立たしいのであった。瑛子には特に井上が、加賀山にもこんな頭の悪い奴が出るんだねと、さわ子を評して云った言葉が忘られなかった。若い嫁であった自分を苦しめた、かたくなな姑の伊勢子の顔がまざまざと甦った。あの血が或る時の泰造にもやっぱり流れている。そして、子供らの中にも恐らく不可抗的に流れこんでいるだろう。それで苦しむのは自分だけである。そして、そんな良人を持ちたいと、そんな子供を生みたいと、女としての自分がいつ願ったことがあるだろう!
生活に対する瑛子の怨恨はいつもここまで遡った。揺蕩たる雰囲気に包まれて書かれ、語られる新婚の生活も、瑛子の現実ではまるで違ったものであった。恋をせずに母とならされて来た一人の女の情熱と肉感とが、成熟の頂点、将に老年が迫ろうとする隠微な一生の季節、最後の青春の満潮時である今、猛然と瑛子をいためつけるのであった。
いけてあった火鉢の火をかき立てて、自分用の九谷の湯呑に注いだ茶を飲みながら、凝っとテーブルの一点に据えている瑛子の睫毛の濃やかな眼から、一滴ずつの涙があふれて
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