来てしずかに頬っぺたを顎の方へ流れた。それは、鹹《から》い、冷たい二筋の涙であった。
 勇蔵たちのごまかしだらけの夫婦の生きかたも、彼等の社会的地位にかかわらず瑛子の心に軽蔑をよび起した。自分たち夫婦の生活、これまた何であろう。そして、女には法律上の権利さえ十分に与えられていない。その絆にしばりつけられて、終に自分の女としての一生は空費されなければならないのだろうか。自分はそれを望んでいるだろうか。決して望んでいない! 望んではいない! 瑛子の心の中には足ずりをするような絶叫がある。その絶叫の端に、二十九歳の田沢の俤が浮んでいた。彼は多血性な泰造とはまるで反対な骨格と皮膚をもっていた。瘠せ形でどちらかというと蒼い田沢の青年の顔が、瑛子の大柄な、既に衰えをあらわしながらなお豊満で芳しい全存在をひっぱりよせるように招くのである。
 瑛子はいつしか自分の思いのうちにとらわれて、永い間沢山の涙をハンケチに吸わして泣いた。

        五

 学校内の空気は、不安を含んで動揺しながら、はる子がそれを予想していたように急速な一般の変化はおこらなかった。二学期の試験が迫っていたこともある。そこへ、学校側が、三田先生の送別会を来る土曜日の放課後、通学生食堂で開催、会費十五銭という予告を出した。
 各幹事ハ打合セノタメ至急庶務ヘオ出デ下サイ。
 告知板の前で、はる子が目立たない程のつよさで傍にいた宏子を小突いた。宏子にははる子の気持が通じた。それを読んで立ち去る学生の中で、
「でもまあ少しは良心があるのね、送別会だけはやらせるんだから……」
 些か憂さの晴れたように云っているものもある。
 第一時間目の終りのベルが鳴って、宏子の組が立ちかけた時幹事の飯田が、
「あの、ちょっと」
と、今日は自分から教壇の横へ出て、
「あの、土曜日の放課後、三田先生の送別会のあることは御承知と思いますが、三田先生のお気持で、もう級別の送別会はおことわりになるそうですから、どうか皆さん御出席下さいということです」
と爽かに述べた。
 前列にいた一人が、思わずも口に出た調子で、
「誰がそう云ったの」
ときいた。
「カキさんよ」
 飯田は、相手の級友の顔を眺めて自分も気取りをなくしたふだん声にかえって云った。級じゅうに不満と皮肉とがぼんやり感じられた。
「あのそれから、送別会では各級の幹事が挨拶するんで
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