蒼ずんで来ている顎のよく発達した顔へ苦笑いで云った。
「嫂さんにあっちゃかなわない。しかし日本の法律は御方便なもんでね。例えば財産についての告訴にしたって夫からは出来るが妻からは出来ない。――じたばたすれば結局損をするのは女なんだから、おとなしく母親として満足していればいいのさ」
「そういう男ばっかりだから、私は腹が立つ。損をしたって、人間はあなたのように損得だけで生きてやしないんだから。私がおさわさんで、あなたが妙なことをしようものなら、愚図愚図泣いてなんかいやしないから!」
瑛子は肌理の美しい頬っぺたに血の色をのぼらして云った。
井上は、瑛子が手洗に立った時後について、贅沢な蝶貝入りの朝鮮小箪笥などが飾ってある廊下まで出て来た。そして瑛子の常識に訴えるように云った。
「何しろああいう有様だから、万一子供たちをゾロゾロつれて、あの年で妙なことでもされると困る。一つよろしく願いますよ」
「それもあなたの体面[#「あなたの体面」に傍点]上でしょう。――」
瑛子は井上の眉目秀麗な中年の豊かな顔から胸へ穿鑿する視線を流しながら、声を落して辛辣に囁いた。
「あなたもいいかげんにするもんですよ。母親が母親だからなんて――揚ちゃんが赤坊の時分、耳の後がただれてつかなかったのは誰のせいだか分っていらっしゃる筈じゃありませんか」
井上が自分で洋盃を取り揃えて食堂から運んで来て葡萄酒などが出され、最後には、若しこの次何かがあれば加賀山も何とか動くという、謂わば気休めで夫婦は帰途についたのであった。
その明け方は、通夜からでも帰った時のようであった。外は真暗な寒い座敷で、眩しく電燈を反射させる鏡の面にワイシャツを真白く映しながら泰造が着換えをしている。こちらの小座敷でひろげた花莚の上へ、気むずかしげなのろい動作で、瑛子が帯止めを解きすて、帯あげをほどき、帯をたぐめて置いている。
泰造は手早く歯をみがいて来ると、小座敷の方へ、
「先へ寝るよ」
声をかけただけで、活動的な跫音を響かせながら二階へあがってしまった。
その日泰造は或る大銀行の経営のことでそこの理事会と衝突した。新たに入った理事が自分の縁故を推薦していて、泰造に顧問格になってくれと云うのであった。泰造はそれは不可能であると拒絶した。新しく推薦されている人に、理事会の意見が一致しているならば全部委せたらよかろうと云
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