の知ったことではないじゃないか。第一そんな者がいるんなら毎晩どんなにおそくっても家へかえって来て寝るなんて奴があるか」
「ねえ、嫂さん、こういうずうずうしいことを云うんですよ。これまで何百遍高島屋からものを届けさせたか知れないけれど、一遍だって高輪の井上様とは書いてきませんでしたよ。あなたが、これは大森の方だよと云ったから、そう書いてあるんじゃありませんか」
「帳場でしらべて来なさい。そしたら気がすむだろう」
「帳場なんか!――自分でちゃんと口止めしといて……ああ、ああ」
さわ子はぼってりとした肉付で重い体を捩るようにしてまた涙をこぼしはじめた。
「勇蔵ったら、御覧なさい、こうして私をどっちへも手も足も出ないようにしてしまって、死ぬのを待ってるんです」
井上は、葉巻の先を切りながら加賀山に向って、
「君に云っては相すまんが、僕は女房には失敗した。加賀山にもこういう頭の悪い奴が出るんだね。――実は僕は子供らも母親が母親だから大して期待しないことにしたよ」
勇蔵の言葉が子供のことに及んだ時、泰造は、非常に真面目な苦痛そうな表情を浮べた。そして、帰りに妻から彼女の心理的に微妙な理由によってその前半だけでねじこまれた言葉、
「そりゃ、おさわがてきぱきしていないから君のような活動家に不適当なところのあるのは僕もわかるが――」
片手で例の唇の両端をさわりながら、泰造は真情をもって、
「だが、子供達には母がいる、父よりも母がいる、まあ考えてくれたまえ」
と云ったのであった。
瑛子はさわ子に対する同情と軽蔑、勇蔵に対する不信用、どちらも隠さず面に出して、
「あなたがそんなに怪しいと思うんなら、私立探偵でも何でも勇蔵さんにつけたらいいじゃありませんか」と云った。「そして、あなたの気がすむように、社会的地位を傷つけるなり、法律上の手段をとるなりしたらいいじゃありませんか。私ならそうする!」
それを云う瑛子の調子の中には、さわ子に向って云ってはいても、二人の男に向けられている威嚇がはっきり響いているのであった。泰造はチョッキのところで細いプラチナの鎖をいじりながら、妻の声と眼の中にもえている威嚇の意味を明瞭に感じて聞いていた。
瑛子が本当にいざとなったらそんなことをもする女である。そのことを泰造はいろいろなことから知っている。勇蔵は、朝剃った頬のあたりが夜半になった今は少し
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