そう思うならって、今更おさわさんを戻されたらあなたどうなさいます?――私は御免ですよ」
 その晩、十二時時分になって白金の井上から電話がかかった。夫婦の間がもめて細君のさわ子がどうしても兄さん達に話をきいて貰うと云って手に負えないからと、勇蔵自身が電話口に立って、当惑を音声の響に現した。
 何しろ子供たちまで皆寝かさないでいる有様だもんだから、と如何にも自身の社会的な地位に対しても笑止げに云った。勇蔵は日本で屈指な生命保険会社の常務その他をやっていた。
 瑛子はくたびれて引きあげて来る途々、りゅうとした大島の揃いをちっとも引立たせず衿元などじじむさく着て、顔を充血させ、むくんだように見えたさわ子のみっともない様子を思い起した。どこから見ても粋な身じんまくのよさで、髪を真中からキッチリとわけている世間で美男という勇蔵の遣りてらしい風貌と、何というはげしい対照だろう。
 この夫妻の悶着は今にはじまったことではなかった。勇蔵の容貌と職業と地位とは、さわ子と結婚してからこれまでの二十年間にも度々細君の嫉妬を刺戟した。今度の諍いは是迄より一層深刻であり性質も重大であった。自宅ではさわ子が少し気の利く女中は片端から出してしまったりして来客に対してさえ世間並の接待が出来かねる、客は一切よそですることにしたと云い渡した。それが去年ごろのことである。高輪の海を見晴す芝生のある家は四人の子供らと、それ以来益々感情をもつれさせたさわ子との生活場所となり、主人の勇蔵は夜から朝までをここで暮していた。一昨日の午後高島屋から大森、井上様とした女物のお召が届いた。それは、さわ子の注文したものでもなかったし、惣領娘の柄でもなかった。一見花柳界好みの品であった。それが、今夜加賀山夫婦に徹夜をさせる原因となった。
 さわ子は、泣く涙はもう流し切って半ば引攣ったような眼を勇蔵に据え、激しい愛着が体の顫える程の憎らしさにかわっている声で、
「さあ、兄さんや嫂さんが来たんだからのがしゃしません。何処にその女をかこったんです」
とむきだしに迫った。
「どうもこれなんだから困る」
 勇蔵は、敏活な表情の上に当惑の色を浮べているだけで、極めて平静にゆとりをもって加賀山夫婦を顧みた。
「だから云ってきかした通りさ。東京に井上という苗字の家は何百軒かある。電話帳を見なさい。くさる程ある。それが偶然間違ったからって、俺
前へ 次へ
全38ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング