却って宏子の苦しさや動揺は切実なのであった。
宏子はなお暫くそのままにいたが、やがて立ち上って寝台のところへゆき、壁際の方の掛物と敷蒲団とをめくって、下から一冊の小型な大して厚くない、ハトロン紙の覆いのかかった社会科学思想の発展の歴史を書いた本をとり出した。
やっと読書に身がいりだした時、コンクリートの廊下にスー、スーと草履をひきずって来る跫音がきこえた。宏子は手をのばして、机の上のスタンドを消した。鍵をかけることの出来ないドアがノックなしにすこし外から開けられる気配がした。
「あら加賀山さん、おきていらしたんじゃなかったんですの」
という、寄宿舎の看護婦の沖のひきのばしたような声がした。
「寝ちゃったわ。――御用?」
「三輪さん外泊でしょう。お淋しかないかと思って……」
宏子はむっと黙って、物音を立てずに沖の去るのを待っていた。お淋しかないかと思って! 寄宿では一応学生の感情をはばかって、舎監が自分から学生の部屋を歩き廻るようなことはしなかった。その実際上の代りを看護婦の沖がつとめた。彼女は中途半端な自分の立場をいいことにして、誰の部屋へでも時をかまわず、口実にならない口実で入りこんだ。皆に顰蹙《ひんしゅく》され切っていながら、鈍感とも鉄面皮とも判断つかない笑顔で金とプラチナの歯を光らしながら、沖は依然として部屋部屋を歩いているのであった。
二
構内にある礼拝堂から、日曜日の朝礼を知らせる鐘の音が響いて来た。風がつよいと見えて鐘は余韻なく遠くに聞える。宏子は枕の下へ手を入れて時計を見た。朝飯には出ないことにして、毛布の下でまだ睡り足りなくて熱っぽい体をのばした時、誰かが宏子の部屋のドアのすぐ外のところへくっついて、
「ね、そんなに云わないで――一人で行って頂戴よ。私の勝手じゃないの、行ったって行かなくったって」
初めは哀願するように、しまいには憤ったように飾りっ気のないふくれた調子で云っている。秋田訛のある杉登誉子の声であった。
「ですけれどね、きのうイー・エス・エスのときミス・ソーヤーがあなたのことをわざわざきいていらっしゃったんですもの。何故この頃礼拝に来なくなったのかって――私仕方がないから、アイ・ドント・ノウって云ったわ。そしたらミス・ソーヤーは、シイ・イズ・ア・ナイスガアルっておっしゃったんですもの……行きましょうよ!」
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