来た男に、はっきり断った。いいだろう?」
宏子は髪の根に汗のにじみ出すような心地で、
「ええ」
と云った。
「おっかさんには黙っていよう、また亢奮するといけないからね」
泰造は片手で執っている宏子の腕のところを、もう一つの自分の手のひらで軽くたたいた。
「心配しないでいいよ。お前はいい娘だ。儂はお前を信じているよ。お前にはまだよく分るまいが、人間は自分のねうちというものを知らなけりゃいけない。そしてそれを大切にすることを知っていなけりゃいけない。いいかい?」
それからは黙ったまま父娘が夕靄のかかりはじめた街路を家の方へ向ってゆっくり歩いた。もう家の門が見えるところまで来たとき、泰造が、もし煙草をふかしてでもいたなら、その吸殼をつよく地べたへたたきつける時の調子で
「あいつは、わざわざ第三者を入れてそういう話を持って来た。――」
と云った。
その時から六年経った。宏子は今これらのことを複雑な感情で思い出すのである。
学校前のバスの停留所のところは、片側が武蔵野らしい雑木林で、櫟《くぬぎ》の樹にまじって立てられている柱から燭光の弱い街燈が、白く埃をかぶった道端の笹を照らしている。厚く敷かれたばかりで、まだ踏みかためられていない門内の砂利が、宏子の靴の下でくずれて一足毎にザック、ザックと大きい音を立てる。門衛が、眼鏡越しの上目で、瞬間の明るみの中を横切って行った宏子の姿を見さだめた。
同室の三輪は、外泊であった。宏子は、帽子を寝台の上に放り出すようにぬいで、先ず靴をはきかえた。それから、寝間着に着かえて、洗面所ですっかり顔と手とを洗った。机の前の椅子をずらして腰かけた。教科書が青銅のピイタア・パンの本立てで挾まれた背をこちらへ向けて机の上に並んでいる。視線をそれ等の赤や茶色の背表紙にやすめながら、宏子は教科書への興味は一向に動かされず、順二郎は今頃、何をしているだろう、としきりにそれが考えられた。順二郎の、どんなに明るい燈に照らされても冴えないようだった今夜の少年ぽい顔。母の異様な美しい程の集注、母であって母でないような心の空《そら》なあの様子。――娘である宏子の感情は苦しまずにいられないものが漲っているのに、その擾乱の中には軽蔑をひき起すようなくずれたものは感じられないのであった。若い宏子たちと共通なような生一本なものが瑛子のとり乱した感情を貫いていたので、
前へ
次へ
全38ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング