《わたくし》の嬉しさ。
机に居ても 空は見え
畳に座しても
大どかな海の円みと
砂のかおりが
頬のあたりに そっと忍びよって来る

ああ、
新しい部屋のうち
新らしい人生へのときめきを覚えて
見えない神に笑みかける私の悦びを
誰に伝えよう。
夜の来た硝子の窓には
背に燈火を負う私の姿が
万年筆の金冠のみを燦然と閃かせ
未生の夢に包まれたように
くろく 静かに 写って居る。

     *

ああ、海! 海※[#感嘆符二つ、1−8−75]
広い懐の大海
お前の際限ない胸を張れ!
濤をあげよ。
そして、息をのむ大洪水の瞬下に
此あわれに 早老な女の心を溺れ死なせ。
波頭に 白く まろく、また果《は》かなく
少女時代の夢のように泡立つ泡沫は
新たに甦る私の前歯とはならないか。
打ちよせ 打ち返し轟く永遠の動きは
鈍痲し易い人間の、脳細胞を作りなおすまいか。
幸運のアフロディテ
水沫から生れたアフロディテ!
自ら生得の痴愚にあき
人生の疲れを予感した末世の女人には
お身の歓びは 分ち与えられないのだろうか
真珠母の船にのり
アポロンの前駆で
生を
双手に迎えた
幸運のアフロディテ

     
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