を正面から聖壇の大蝋燭が照していた。小揺ぎもしない金色の輝の環の中で、彼の黒い、精神の燃えたかまった二つの眼、清い唇、純白の寛衣と黒い捲毛とは、この世のものでなく見えた。ルイザが「聖母まりーあ、ああ御母まりーあ」とくずおれてしまったほど、その顔だちと姿とは絵の少年基督に生きうつしなのであった。
 ルイザは、震えながら、幾度も幾度も十字を切った。
「ああお恵み深い聖母、こんなことがあってよろしいものでしょうか。私の眼は今まで何を見ておりましたのでしょう」
 彼女は、始めてフランツが人目を牽いた訳を知った。誰が、お前の子はイエス様にそっくりだなどと、造作なく云えたものか。彌撒が終ると、フランツは、合唱仲間と村長の家へ廻ることになっていた。
 ルイザは、ハンスの腕をかたく握って会堂を出た。空は寒く深く晴れ上って、星が大きく燦いていた。往来の左右にははきよせた四五日前の雪があった。家々の窓から洩れる灯かげを横切って、時々黒く人通りがある。
 暫く歩くと、路は広い空地にかかった。ルイザは、ぐっとハンスの腕を引いて、彼の耳を自分の口に近く下げさせた。そして、なおよく前後を見廻した後、始めてわかった驚くべき事実を彼に囁き聞かせたのであった。
 ハンスの、重い口は、思いがけないことでまるで働きを失ったように見えた。彼は、
「ふうむ」と牡牛のように唸った。
 黙って考に沈み、凍った夜道で一度二度足を辷らせながら、夫婦は家に着いた。ルイザは、鍵を廻して入口の扉をあけた。
「お入りな」
 ハンスは、戸口に立ち止って、何か考えながら獣皮帽を手の平で額の後にずらせた。
「いや――俺はフェリクスの店まで行って来ずばなるまい」
 ハンスは、また帽子をかぶりなおして出て行った。わくわくしているルイザには、ハンスが帰って来るまでに、どの位時が経ったのかまるで解らなかった。
 表の方に跫音がしてハンスと一緒に思いがけずフランツが奥の小部屋に入って来るのを見ると、ルイザは、驚きの叫びをあげて立ち上った。彼女は何か云いながらフランツにかけ寄ろうとした。が、ぴたりと止り、両手を握り合わせ、殆ど畏怖の現れた眼でフランツを見た。彼はもう白い寛衣は着ていなかった。けれども、これほどありありわかる俤を、何故今夜まで見わけられなかったのだろう。
 ハンスは、帽子と厚い外套とを釘にかけた。
「連れがなかろうと思ったんで、一寸よって来てやった」
 彼は、卓子の前に腰を掛けた。そして少しの間ばつの悪そうに剛い髭を指先で撫でていたが、やがてフランツに云い始めた。
「今夜は滅法好い声で唱ったな」
 彼は衣嚢をさぐり、一挺の小刀をとり出した。
「ほら、今日の祝いだ。失くさないようにしろ」
 フランツは嬉しそうににこにこした。
「ほう! 両刃だね」
 ルイザは、卓子の彼方側から、熱心に父子を見守った。ハンスが妙に口を利き難そうにし、何か心に考えを持っていることが彼女によく分った。フランツがすっかり満足し、刃をすかしたり、彫りの模様を検べたりする様子を見ていたハンスは、更に細長い棒のように巻いたものをとり出した。
「これもまあ記念の積りだ。――机の傍の壁にかけられる大きさだと思うが。開けて見ないか」
 フランツは、ナイフを置いて、結びめを解いた。そしてくるくると少し内側を拡げると、彼は感歎の声をあげた。
「ほほう! これ! まるでいいや」
 フランツは、手一杯に拡げたものをルイザの方に向けた。一目見て彼女は息が窒《つま》りそうになった。それは聖画、しかも先刻会堂で、彼女が、その中の基督がフランツか、フランツがその救主かと震えながら見た少年イエスが博士達と問答をしている画であった。
 ハンスは、ルイザの愕きをわざと見ないふりで、フランツに何気なく云った。
「腕一杯だな――脇棚に下げて見よう」
 彼はフランツを助けて、二つの壺を重しに使い、棚からその聖画を下げた。燈の工合で陰翳《かげ》が濃くなり、遠くから眺めると、若いイエスの唇からは今にも活々した声が響いて来そうに、画中の人物が浮上って見えた。
 親子三人は、黙ってじっとその方を見た。やがて、ハンスが息子に云った。
「一寸あの画の傍に立って見ろ」
 フランツは、怪訝そうに父親と母とをかわるがわるに見た。
「お前の背があの画の何処まであるか見て置きたいのさ」
 フランツは、歩いて行って絵のそばに立った。
「これでいい?」
「もうちっと画によって」
 フランツは画中の基督と同じ高さに顔を並べた。ハンスは思わず深く唸った。ルイザは肱でひどく夫の脇を突きながら、いたたまれないように囁いた。
「御覧なさい! ああまりーあ、聖《さんた》まりーあ」
 ハンスは、のそりと立ち上った。
 彼は忽然として自分の目の前に現われた二つの少年イエスの顔を見て、名状出来ない気持に打たれたのであった。
 その晩、夫婦は長いこと、床の中で目を醒していた。ハンスは、彼の考えになれない頭で、自分達親子の運命を思い惑った。自分のように学問も徳もない平民に、何故あれほど、救世主に似た顔つきの息子を授けられたのか。考えれば考えるほど解らなくなって、彼は、ひとりでに太い溜息を洩しては、寝返りを打った。
 ルイザは、絶え間なく聖母まりーあを称えながら涙を流した。ハンスが大きな体躯で寝返りを打つ毎に少しずつ傍にずって遣りながら、彼女は、フランツの髪や眼の黒いことを私《ひそ》かに不平に思ったり、後の子供達の生れない苦情を訴えたりしたことを、慈悲深い聖母に謝罪した。
 このことがあってから、ハンスとルイザとは、自分の息子に対する心持を変えた。彼等はフランツを、時が来るまで――それは勿論いつか判らないが――自分達にあずけられている者と云う恭々しい感じを深めた。もう、人が目をつけることも恐れなかった。誰か、
「あれはお前さんの息子かね」
とききでもすると、ハンスは元のように眼を逸するようなことはせず、鄭重に答えた。
「さよう、あれはフランツ・アルブレヒト・ヨーストです」

 少年のフランツ・ヨーストは、次第に自分の生活が何だか他処の子とは異うようなのに心付き始めた。
 例えば、隣りのエルンストは、彼と同じ年であったが、よく父親に怒鳴られて耳を引張られていた。自分は唯の一度父親に耳たぼさえつねられたことがあるだろうか。
 忘れられないことがあった。
 ちょうど堅信礼を受けて間もない或る日、彼は父親が直したばかりの自鳴器《オルゴル》つき懸時計を、仕事場の此方から、彼方の壁に持って行って吊ることを云いつけられた。
 フランツは、時計を捧げて一二間歩いた。が、ちょっとうっかりした機勢《はずみ》に何かに蹴つまずいた。はっと思う間に、大事な時計は彼の両手の間からすっ飛んで、いやというほど彼方の箱にぶつかってしまった。
 フランツはぎょっとして首をちぢめ、立竦んだ。ハンスは怒鳴りながら飛んで来た。そしてぐっとフランツの肩を掴んだ。がフランツが、あやまろうとして父親の顔を見上げると、彼は何故か、黙ってそろそろ手先の力をゆるめた。やがてすっかり肩から手をはずした。そして、却ってフランツを恐れさせた静かな口調で一言、
「もうよい、彼方へ行け」と云った。
 フランツはその時、どんなに父親に怒って貰いたかっただろう。彼はしんから父に気の毒に思ったので、出来るなら頬の一つも打って欲しかった。勿論泣くだろう。けれども、父親が、彼にさえ感じられた努力で癇癪を抑えるのを見るよりは、ずっと後がからりとしたに違いないのだ。けれども、父は、他処の父親が息子を怒りつけるようには怒らなかった。それがフランツに、寂しさを与えた。
 母親についても、彼の感じは同じであった。他の村人や学校の教師についてさえも。
 フランツは、何故か、自分は悪戯《いたずら》やその他同じ年頃の少年のする馬鹿なことは、決してしないものと傍からちゃんと定められているような窮屈さを感じた。
 たまに何かやると、人々は真面目に、大人に対してのように言葉|寡《すくな》く愕きを示した。そして彼から、弁解や活溌な口応えや、止められたことをまたする冒険の面白さを殺《そ》いでしまった。
 彼は、何とも知れず厳かな雰囲気が、到るところ自分の行く先について廻るのを知った。彼の少年らしく野放しな陽気さをのぞむ心持、腕白小僧のように遠慮なく大人とふざけ廻って見たい気持は、皆、そういう彼の力ではどうしようもない何物かで阻まれてしまうのであった。
 これ等の、内へ内へと、自分の憧れや、楽しさを追い込まれる寥《さび》しさが、全く、不思議な自分の顔立ちの故だとはっきり解ったのは彼が十五の時であった。
 その年の秋、例年通り、村長の持ち山で、胡桃《くるみ》もぎの年中行事があった。
 フランツもその年から村の若者の仲間入りが出来る筈であった。彼は、白絹の晴着の襯衣《シャツ》をつけ、父親の他処行を直した天鵞絨《ビロード》の半|洋袴《ズボン》をはいて、隣りのエルンストと出かけた。山には荷車に載って行った小綺麗な身なりの娘の一隊が待っていた。
 村長が振りまわす杖の先で、笑ったり犇《ひし》めいたりしながら、若者達と娘等は入り混って幾組もに分れた。
 娘達は、皆手にリボンで飾ったいろいろの形の籠を下げた。男どもは、先に鈎のついている長い枝下げ棒をかついだ。フランツは、二人の小っぽけな娘と組になった。
 二人とも同じように薄赭い少い髪を編み下げにし、狭い胸に黒天鵞絨の胸衣《ボディース》をつけている。始りは少し間がわるかった。けれども、片方の、雀斑《そばかす》のある娘が、
「あら! お前さんのズボンもビロード?」
と叫んでから、すっかり極りわるさがとれた。フランツは、元気よく二人をつれて樹の間に分け入った。
 彼方此方から、楽しそうな笑い声や、陽気な合唱、木の枝のざわざわいう音が響いて来た。
 組と組とが、ひょっくり樹の陰から出会いでもすると、両方でどっと悦びの声をあげた。娘達は籠を覗き合う。或る者が入れ換る。傍では手を叩いて笑い囃す。ぱたぱた馳ける跫音。その秋の一日は非常に麗かであった。
 小さい娘達とフランツも工合よくやって行った。
 彼は、どっさり果《み》のついている枝を見つけては、低く低く、いつまででも娘達のもぎきるまで曲げていてやった。娘共はずるく牒し合わせ、わざとのろのろ暇をかける。フランツが手を怠《だる》くして枝を離すと、彼が余り早く手離したと云って怒った。怒りながらふきだした。
 虫食いの不具な果でもつかむと、彼女達は、
「いやなフランツ! 虫っくい」
と、彼にその果をぶっつけた。
 はははは。もっとぶっつけろ、もいだ胡桃をみんなぶっつけろ! フランツは樹に登るぞ。彼は登った。乾いて好い匂いのする葉の間へ本当に隠れた。そして、ばらばら枯れ葉をお下髪《さげ》の頭にふるい落す。
 が、またいつの間にかするする裏板から辷り降り、上ばかり見上げている娘達の鼻先に、ばっさり好い枝を引き下げて、愕かすのだ。
 楽しい胡桃山の上に日が移った。
 樹々が長い濃い影を地に落す時刻になると、再び村長の杖が皆をかり集めた。
 若い者達は、村まで歩いて帰ることになった。荷馬車は村長と胡桃を載せて、謝肉祭の山車のように列の真中に割り込んだ。
 フランツはエルンストに会い、暫く彼と一緒に歩いた。
 山合いの曲った草道を抜けると、路は、なだらかな傾斜の耕地に出た。遙か遠くに村の教会の塔が見え、頂の十字架が、西日でキラキラ燃えるように光った。それも段々薄れて、やがて見えなくなり、四辺に低く夕暮の靄が這い始めた。もうよく見分けられない列の前方から、足に合せた速い調子で「早起きトッド」の歌が聞え始めた。
 フランツは、ふと、連だった小さい娘達のことを思い出した。
 彼はエルンストと別れて、歩調を早め、列を前に通りぬけて見た。娘達はいた、やはり二人かたまって、少し大きい娘の傍にくっついて、黙ってせっせと歩いている。
 フランツは、顔を見定めてから傍によって行った。
「一緒に歩こう」
 声をきき、顔をじっと見、それがフラン
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