宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伊太利亜《イタリア》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)言葉|寡《すくな》く
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 ルイザは、天気にも、教父にも、または夫のハンスに対しても、ちっとも苦情を云うべきことのないのは知っていた。
 自分達位の身分の者で、村の誰があんな行届いた洗礼式を、息子に受けさせてやったろう。四月の第二日曜のその朝、天気は申し分のない麗らかさであった。暖い溶けるような日の色といい、爽やかな浮立つような微風といい。彼女は、ハンスと婚礼した時からの思い通り、由緒ある伊太利亜《イタリア》レースの肩掛にフランツを包んで、教会に行った。
 ハンスは気張って、きまりの献金のほかに、打紐で飾った二本の大蝋燭と見事な花束とを聖壇に捧げた。
 教父は至極懇ろであった。
 丁寧にフランツの頭に聖水を灌《そそ》ぎ「主の忠実なる僕、ハンス・ゲオルグ・ヨーストの一家に恵深き幸運を授け給え」と、祈祷書にない文句さえ、足して称えてくれたのではあるけれども、ルイザは、教会からの帰り、見晴しのよいだらだら坂を、滅入った心持で下りた。彼女には、仕立屋のカールが、不意とフランツをあやすのをやめた、そのやめかたが気になっていた。郵便局の細君が、フランツのくるまっているレースをことさらに褒《ほ》めた。その褒めかたがルイザの心持を曇らせたのであった。
 彼等が、小ざっぱりとした安息日の盛装で教会の広場に現われると、真先に見つけて近づいて来たのは仕立屋のカールであった。
 彼は、のしのしと大股に近づいて来た。そして腕を振り廻してハンスと握手した。
「どうだね」
 彼は、酒肥りのした厚い瞼の間から、じろりとルイザの抱いているものの方を見た。
「男かね、女かね」
 ハンスは、口のまわりに微かにばつの悪そうな表情を浮べながら低く答えた。
「男の子だ。――親父の名を貰ってやったさ」
「ほう! 男とはうまいことをやりおった。せっせと金箱を重くしても、娘っ子に攫《さら》われちゃあ始らないからな」
 仕立屋のカールは、ルイザの方へやって来た。ルイザは初めての児を褒められた嬉しさに、自分の方から膝をかがめて挨拶した。
「どれどれ、一寸のぞかせて下さい。儂《わし》でもこれで三人孫をあやして呼吸は知っているよ」
 ルイザは、フランツの額の上からレースをどけて顔全体がよく見えるようにした。
 カールは、大儀そうに腰をかがめ、キ、キ、キ、と舌を巻きあげながら、年寄らしい愛嬌をふり撒いた。
「ふむ、なかなかよい児だ。男になれよ」
 が、彼はふと訝しそうに眼をルイザの顔に移した。ルイザは彼が何か云うのかと思った。ところが、仕立屋はそのまままたさりげなく嬰児を覗き込んだが、今度はほんのお義理で、ちょいちょいとフランツの頬を突つくと、さっさと、一言の挨拶もなく男達の群に戻って行ってしまった。
 ルイザは、鋭い痛みが、胸の真中を刺しとおしたように感じた。
 何という変な爺さんなのだろう。
 程なく、ルイザの囲りは新たに賑やかになって来た。
 彼女のまわりでは、女達の白い大頭巾が彼方此方に揺れ、絶間ない話し声が漣《さざなみ》のように拡った。そのうち誰か一人が、後を振向いて一寸傍によった。その前に喋っていた女は言葉を切ってその方を見、途をあけた。ルイザが縫物を習ったことのある配便局の細君が、まるで町風に派手な帽子をつけ、踵の高い靴を耀かせてやって来たのであった。
 郵便局の細君は、ルイザに近よりきらないうちから誰よりも大きな声で話し出した。
「まあまあ、立派な阿母さんにおなりだこと。ついこの間までほんのねねさんだと思っていたのに――」
 ルイザの後に立つと、彼女は、傍で挨拶をした一人の女を見向きもせず、指環の三つ嵌《はま》った手を延して、レースをどけた。
「どれ、――ふうむ、いい児だこと」
 郵便局の細君は、フランツの顎の下を擦《こす》った。伏目になって微笑みながら子供の顔を見ていたルイザはやがて、おやと思ってひそかに注意を集めた。フランツの顎を擦っていた細君の光沢のある指先の働きは、妙にのろくなった。そして、ルイザにははっきり感じられた一種の感情をもってそのまま止ってしまった。下を向いたまま彼女は自分の顔と嬰児の顔とが素早い偸むような一瞥で見較べられるのを感じた。指先は、そっとフランツのくくれた軟い顎の下から引こめられた。そして、郵便局の細君は、ほんの一足ルイザからどき、殊更な、まるで溜息と一緒にはき出すような調子で云った。
「まあ、綺麗なレースをお持ちだことね」
 ルイザはかっと眼の裏が熱くなるように思った。
 レースは確に結構なものであった。彼女の曾祖母が、サクソニー太公夫人の侍女を勤めた時拝領したそれは、まがいなしの伊太利亜絹レースであった。それを褒められるのは嬉しかった。彼女が嫁入りに母親から貰った唯一の本当に立派なものだったから。けれども、この人は、また何という妙なほめようをするのだろう。
 焦々した思いがつき上げて来た。ルイザは、フランツの顔を見たまま、はっきり呟いた。
「何てお前はお祖父さん似なのだろう。私の子でないと思われるよ」
 然し、云ったあと、猶、ルイザの心持は悪くなった。鐘が鳴り渡って、ルイザも定りの腰架についたが、彼女には、自分達の捧げた二本の大蝋燭がちっとも他の蝋燭と違わない色や形で聖十字架の前に燃えているのが、ひどく物足りなかった。焔が美しく揺れる度ごとに「フランツのために」とでも、高らかに歌いながら輝いてくれれば好いのに!
 ハンスは、ルイザの心持は知らず満足して、大股に悠《ゆっ》くり教会から歩いた。家へ妻と嬰児を送りとどけると、盛装のまま、また出て行った。
 独りになると、ルイザはためていた涙をぽたぽた膝の上に落した。そして、頭を振った。彼女には、今日自分が経験したいやな思いは何でもない、ただ、自分等夫婦とも、髪は金色で碧い眼を持っているのに、生れたフランツばかり何故か黒い捲毛と黒い眼をしているからだと、はっきり分ったのであった。

 全く、フランツは、ひとによく目をつけられる児になった。
 村には彼のほかに沢山、黒毛で黒い眼をした男の児がいる。それだのに誰もそれ等の児には目をとめない。村の者でも、町から用事に来た者でも、フランツ・ヨーストの小さい顔を見ると、この世で初めて髪や眼の黒い子供に出逢ったように長い間じっと彼を視た。
 ルイザが一番気にしたのは、そんなにしげしげ眺めながら、彼等が一人として普通ごく自然にするように「ほほう、好い子だ」とか「これは可愛い」とか暖い、彼女もよろこぶ感歎の言葉を洩さないことであった。ルイザが見ていると、或る者は、殆んど、驚くべきものを道傍で発見でもしたように、眼を瞠《みは》り立ち止って、無心なフランツを熟視した。けれども、傍の時計屋の入口で手を腰に当てて厳しい顔で此方を見張っている彼女が母親だと判ると、俄にわざとらしく空咳をしたり髭をしごいたりして、歩き始める。
 フランツが自分に解らない理由で、理解出来ない注目の焦点になるのを見ると、ルイザは何ともいえず不安に居心地わるく感じた。
 追々片言を喋るフランツに、何か云いかけている耳なれない声をききつけると、ルイザは、
「フランツ! フランツ!」
と、息子を呼んだ。
 フランツは馳けて来る。
 ルイザは、彼の顔や体を仔細に見まわし、何処にも別状ないのを見極めて、裏に連れ出した。
「さあいい子は暫くこっちへ来てお遊び。ガーガーが、フランツ来い来いと呼んでるだろう」
 裏は空地で、余りよく耕されていない礫まじりの甘藍や蕪《かぶ》の畑、粗末な板囲いの家畜小屋があった。小屋の中には五匹の親子づれの黒い粗毛の豚がいた。三羽の鵞鳥は、フランツの前を走って逃げながら、喧しい声で鳴き立てた。フランツは、乾草熊手に跨って黒い捲毛をふり立ててその後を追い廻す。
 ルイザは、よく夫のハンスに云った。
「お前さんはどう思いなさるか知らないが、私はあのフランツは苦労の種ですよ。あんな小さいうちっから、あんな人に気をつけられる児というものを見たことはありゃあしない。それも、何で見られるのか判れば私だって気が楽だけど」
 夫婦が、店に続く奥の小部屋で木の卓上に向い合い、こんな話をする時分、フランツは、彼の藁床でもうぐっすり寝ついていた。
 ハンスは、黙って、長いこと陶器のパイプを噛む。やがて持ち前の重い口調で云った。
「時が来れば、わかるだろう。――まるでの案山子《かかし》でもなさそうじゃないか――」
 ルイザは、赤い更紗のカーテンで半分かくされているフランツの臥床を眺めた。
「――俺の大祖父はやっぱりあのちびのように黒い眼をしていたっけが――死ぬ時分には村の書記で、名も憶えられる者になった」
 ルイザは、黙って疑わしそうにちらりとハンスの顔を見る。二人はそのまま黙り込んだ。四辺が余り森として、夜の空気の中にフランツの寝返り打つ気勢さえしないと、ルイザは突然訳のわからない不安に掴まれた。彼女は遽しく、而も跫音を忍ばせて、カーテンの傍によった。そして、そおっとフランツの寝顔を覗き込んで、また自分の腰掛けに戻る。一寸気がつかない間に、何処へかいなくなってでもいはしまいかという烈しい意味のない懼《おそ》れが、ルイザを焼くような思いで腰掛から追い立てるのであった。
 不思議な心配、ルイザの絶え間ないぼんやりした恐れの間に、フランツは段々成長した。

 フランツは、小学を終る前の年、堅信礼を受けた。
 その年の万聖節の夜の彌撒《ミサ》は、ルイザにとって、婚礼の時のような晴がましい亢奮を感じさせた。フランツが、同じときに信徒名を授けられた少年と一緒に、初めて聖歌合唱をすることになったのであった。
 定りの礼拝と祈祷とがすみ、教父がきらびやかな法服の裾を引いて聖壇の前の椅子につくと、ルイザは、我知らず胸に下げた数珠を握りしめて正面を見つめた。静々と聖壇の右側の扉が開けられた。純白の寛上衣をつけ、片手に譜本を持った赭毛の男の児が真先に現れた。会衆のざわめきも他処に一人一人出て来る順に手繰り込むように目の前をやり過しながら、ルイザはフランツの姿を待った。
 彼は、四番目に現れた。真面目な顔つきで、自分の場所に立つと傍見もしない。あと二人のルイザに誰か分らない男の子が続いた。
 皆は一列に並んだ。一声、長い、引くようなオルガンの音が響き渡った。四辺が水を打ったように鎮りかえった。歌い手達は、一斉に両手の間に譜を拡げた。期待に満ちた、静寂を破ってオルガンは、徐《おもむ》ろに荘重な四重音で一小節、歌の始りを前奏した。息をため、心をこめて六人の少年歌手は「ナザレのふせやに」という文句で始る信徒生涯の聖歌を歌い出した。
 ルイザは、子供のときから幾度も聴いたなつかしいその節をきくと、ぞっと身中にさむけが走るように感動した。彼女は蝋燭の煌《かがや》きの反射する、香の薫りのうっすり立ち罩《こ》めた腰架の上で、低く頭を下げた。
 うっとりとして聴き入っていると、ルイザには、次第にフランツの声ばかりが聞えて来た。たっぷりした響の美しい彼の声が、真心をこめて幅ひろく流れ下りまた高まるに従って、他の入り混った幾つもの声が、優しく一つ低音に漂ったり心も躍るように晴々高い声で顫えたりする。
 ルイザは、それまで一度もフランツが本気で歌うのを聞いたことはなかった。何という立派な声を持っていたのだろう。
 ルイザは上気《のぼ》せた顔を挙げ、讚歎でうるんだ眼をフランツに向けた。刹那に、彼女の相好が変った。彼女は、何ともいえない顔をして、無意識に傍にいる夫のハンスの方に片手を伸した。
「フランツ、フランツ――あれが、フランツ? あの神々しい――……」
 ルイザは、瞳をつき出し、微に口をあけ、打たれたようにフランツを視た。
 ああ、まさか、彼方の聖画の命が入って、少年イエスが代って立っているのではあるまい!
 我を忘れて唱うことに身も心も打ち込んでいるフランツの顔
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