時のような晴がましい亢奮を感じさせた。フランツが、同じときに信徒名を授けられた少年と一緒に、初めて聖歌合唱をすることになったのであった。
 定りの礼拝と祈祷とがすみ、教父がきらびやかな法服の裾を引いて聖壇の前の椅子につくと、ルイザは、我知らず胸に下げた数珠を握りしめて正面を見つめた。静々と聖壇の右側の扉が開けられた。純白の寛上衣をつけ、片手に譜本を持った赭毛の男の児が真先に現れた。会衆のざわめきも他処に一人一人出て来る順に手繰り込むように目の前をやり過しながら、ルイザはフランツの姿を待った。
 彼は、四番目に現れた。真面目な顔つきで、自分の場所に立つと傍見もしない。あと二人のルイザに誰か分らない男の子が続いた。
 皆は一列に並んだ。一声、長い、引くようなオルガンの音が響き渡った。四辺が水を打ったように鎮りかえった。歌い手達は、一斉に両手の間に譜を拡げた。期待に満ちた、静寂を破ってオルガンは、徐《おもむ》ろに荘重な四重音で一小節、歌の始りを前奏した。息をため、心をこめて六人の少年歌手は「ナザレのふせやに」という文句で始る信徒生涯の聖歌を歌い出した。
 ルイザは、子供のときから幾度も聴いたなつかしいその節をきくと、ぞっと身中にさむけが走るように感動した。彼女は蝋燭の煌《かがや》きの反射する、香の薫りのうっすり立ち罩《こ》めた腰架の上で、低く頭を下げた。
 うっとりとして聴き入っていると、ルイザには、次第にフランツの声ばかりが聞えて来た。たっぷりした響の美しい彼の声が、真心をこめて幅ひろく流れ下りまた高まるに従って、他の入り混った幾つもの声が、優しく一つ低音に漂ったり心も躍るように晴々高い声で顫えたりする。
 ルイザは、それまで一度もフランツが本気で歌うのを聞いたことはなかった。何という立派な声を持っていたのだろう。
 ルイザは上気《のぼ》せた顔を挙げ、讚歎でうるんだ眼をフランツに向けた。刹那に、彼女の相好が変った。彼女は、何ともいえない顔をして、無意識に傍にいる夫のハンスの方に片手を伸した。
「フランツ、フランツ――あれが、フランツ? あの神々しい――……」
 ルイザは、瞳をつき出し、微に口をあけ、打たれたようにフランツを視た。
 ああ、まさか、彼方の聖画の命が入って、少年イエスが代って立っているのではあるまい!
 我を忘れて唱うことに身も心も打ち込んでいるフランツの顔を正面から聖壇の大蝋燭が照していた。小揺ぎもしない金色の輝の環の中で、彼の黒い、精神の燃えたかまった二つの眼、清い唇、純白の寛衣と黒い捲毛とは、この世のものでなく見えた。ルイザが「聖母まりーあ、ああ御母まりーあ」とくずおれてしまったほど、その顔だちと姿とは絵の少年基督に生きうつしなのであった。
 ルイザは、震えながら、幾度も幾度も十字を切った。
「ああお恵み深い聖母、こんなことがあってよろしいものでしょうか。私の眼は今まで何を見ておりましたのでしょう」
 彼女は、始めてフランツが人目を牽いた訳を知った。誰が、お前の子はイエス様にそっくりだなどと、造作なく云えたものか。彌撒が終ると、フランツは、合唱仲間と村長の家へ廻ることになっていた。
 ルイザは、ハンスの腕をかたく握って会堂を出た。空は寒く深く晴れ上って、星が大きく燦いていた。往来の左右にははきよせた四五日前の雪があった。家々の窓から洩れる灯かげを横切って、時々黒く人通りがある。
 暫く歩くと、路は広い空地にかかった。ルイザは、ぐっとハンスの腕を引いて、彼の耳を自分の口に近く下げさせた。そして、なおよく前後を見廻した後、始めてわかった驚くべき事実を彼に囁き聞かせたのであった。
 ハンスの、重い口は、思いがけないことでまるで働きを失ったように見えた。彼は、
「ふうむ」と牡牛のように唸った。
 黙って考に沈み、凍った夜道で一度二度足を辷らせながら、夫婦は家に着いた。ルイザは、鍵を廻して入口の扉をあけた。
「お入りな」
 ハンスは、戸口に立ち止って、何か考えながら獣皮帽を手の平で額の後にずらせた。
「いや――俺はフェリクスの店まで行って来ずばなるまい」
 ハンスは、また帽子をかぶりなおして出て行った。わくわくしているルイザには、ハンスが帰って来るまでに、どの位時が経ったのかまるで解らなかった。
 表の方に跫音がしてハンスと一緒に思いがけずフランツが奥の小部屋に入って来るのを見ると、ルイザは、驚きの叫びをあげて立ち上った。彼女は何か云いながらフランツにかけ寄ろうとした。が、ぴたりと止り、両手を握り合わせ、殆ど畏怖の現れた眼でフランツを見た。彼はもう白い寛衣は着ていなかった。けれども、これほどありありわかる俤を、何故今夜まで見わけられなかったのだろう。
 ハンスは、帽子と厚い外套とを釘にかけた。
「連れがなかろうと思ったんで
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