、一寸よって来てやった」
 彼は、卓子の前に腰を掛けた。そして少しの間ばつの悪そうに剛い髭を指先で撫でていたが、やがてフランツに云い始めた。
「今夜は滅法好い声で唱ったな」
 彼は衣嚢をさぐり、一挺の小刀をとり出した。
「ほら、今日の祝いだ。失くさないようにしろ」
 フランツは嬉しそうににこにこした。
「ほう! 両刃だね」
 ルイザは、卓子の彼方側から、熱心に父子を見守った。ハンスが妙に口を利き難そうにし、何か心に考えを持っていることが彼女によく分った。フランツがすっかり満足し、刃をすかしたり、彫りの模様を検べたりする様子を見ていたハンスは、更に細長い棒のように巻いたものをとり出した。
「これもまあ記念の積りだ。――机の傍の壁にかけられる大きさだと思うが。開けて見ないか」
 フランツは、ナイフを置いて、結びめを解いた。そしてくるくると少し内側を拡げると、彼は感歎の声をあげた。
「ほほう! これ! まるでいいや」
 フランツは、手一杯に拡げたものをルイザの方に向けた。一目見て彼女は息が窒《つま》りそうになった。それは聖画、しかも先刻会堂で、彼女が、その中の基督がフランツか、フランツがその救主かと震えながら見た少年イエスが博士達と問答をしている画であった。
 ハンスは、ルイザの愕きをわざと見ないふりで、フランツに何気なく云った。
「腕一杯だな――脇棚に下げて見よう」
 彼はフランツを助けて、二つの壺を重しに使い、棚からその聖画を下げた。燈の工合で陰翳《かげ》が濃くなり、遠くから眺めると、若いイエスの唇からは今にも活々した声が響いて来そうに、画中の人物が浮上って見えた。
 親子三人は、黙ってじっとその方を見た。やがて、ハンスが息子に云った。
「一寸あの画の傍に立って見ろ」
 フランツは、怪訝そうに父親と母とをかわるがわるに見た。
「お前の背があの画の何処まであるか見て置きたいのさ」
 フランツは、歩いて行って絵のそばに立った。
「これでいい?」
「もうちっと画によって」
 フランツは画中の基督と同じ高さに顔を並べた。ハンスは思わず深く唸った。ルイザは肱でひどく夫の脇を突きながら、いたたまれないように囁いた。
「御覧なさい! ああまりーあ、聖《さんた》まりーあ」
 ハンスは、のそりと立ち上った。
 彼は忽然として自分の目の前に現われた二つの少年イエスの顔を見て、名状出来ない気持に打たれたのであった。
 その晩、夫婦は長いこと、床の中で目を醒していた。ハンスは、彼の考えになれない頭で、自分達親子の運命を思い惑った。自分のように学問も徳もない平民に、何故あれほど、救世主に似た顔つきの息子を授けられたのか。考えれば考えるほど解らなくなって、彼は、ひとりでに太い溜息を洩しては、寝返りを打った。
 ルイザは、絶え間なく聖母まりーあを称えながら涙を流した。ハンスが大きな体躯で寝返りを打つ毎に少しずつ傍にずって遣りながら、彼女は、フランツの髪や眼の黒いことを私《ひそ》かに不平に思ったり、後の子供達の生れない苦情を訴えたりしたことを、慈悲深い聖母に謝罪した。
 このことがあってから、ハンスとルイザとは、自分の息子に対する心持を変えた。彼等はフランツを、時が来るまで――それは勿論いつか判らないが――自分達にあずけられている者と云う恭々しい感じを深めた。もう、人が目をつけることも恐れなかった。誰か、
「あれはお前さんの息子かね」
とききでもすると、ハンスは元のように眼を逸するようなことはせず、鄭重に答えた。
「さよう、あれはフランツ・アルブレヒト・ヨーストです」

 少年のフランツ・ヨーストは、次第に自分の生活が何だか他処の子とは異うようなのに心付き始めた。
 例えば、隣りのエルンストは、彼と同じ年であったが、よく父親に怒鳴られて耳を引張られていた。自分は唯の一度父親に耳たぼさえつねられたことがあるだろうか。
 忘れられないことがあった。
 ちょうど堅信礼を受けて間もない或る日、彼は父親が直したばかりの自鳴器《オルゴル》つき懸時計を、仕事場の此方から、彼方の壁に持って行って吊ることを云いつけられた。
 フランツは、時計を捧げて一二間歩いた。が、ちょっとうっかりした機勢《はずみ》に何かに蹴つまずいた。はっと思う間に、大事な時計は彼の両手の間からすっ飛んで、いやというほど彼方の箱にぶつかってしまった。
 フランツはぎょっとして首をちぢめ、立竦んだ。ハンスは怒鳴りながら飛んで来た。そしてぐっとフランツの肩を掴んだ。がフランツが、あやまろうとして父親の顔を見上げると、彼は何故か、黙ってそろそろ手先の力をゆるめた。やがてすっかり肩から手をはずした。そして、却ってフランツを恐れさせた静かな口調で一言、
「もうよい、彼方へ行け」と云った。
 フランツはその時、どんなに
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