気持に打たれたのであった。
 その晩、夫婦は長いこと、床の中で目を醒していた。ハンスは、彼の考えになれない頭で、自分達親子の運命を思い惑った。自分のように学問も徳もない平民に、何故あれほど、救世主に似た顔つきの息子を授けられたのか。考えれば考えるほど解らなくなって、彼は、ひとりでに太い溜息を洩しては、寝返りを打った。
 ルイザは、絶え間なく聖母まりーあを称えながら涙を流した。ハンスが大きな体躯で寝返りを打つ毎に少しずつ傍にずって遣りながら、彼女は、フランツの髪や眼の黒いことを私《ひそ》かに不平に思ったり、後の子供達の生れない苦情を訴えたりしたことを、慈悲深い聖母に謝罪した。
 このことがあってから、ハンスとルイザとは、自分の息子に対する心持を変えた。彼等はフランツを、時が来るまで――それは勿論いつか判らないが――自分達にあずけられている者と云う恭々しい感じを深めた。もう、人が目をつけることも恐れなかった。誰か、
「あれはお前さんの息子かね」
とききでもすると、ハンスは元のように眼を逸するようなことはせず、鄭重に答えた。
「さよう、あれはフランツ・アルブレヒト・ヨーストです」

 少年のフランツ・ヨーストは、次第に自分の生活が何だか他処の子とは異うようなのに心付き始めた。
 例えば、隣りのエルンストは、彼と同じ年であったが、よく父親に怒鳴られて耳を引張られていた。自分は唯の一度父親に耳たぼさえつねられたことがあるだろうか。
 忘れられないことがあった。
 ちょうど堅信礼を受けて間もない或る日、彼は父親が直したばかりの自鳴器《オルゴル》つき懸時計を、仕事場の此方から、彼方の壁に持って行って吊ることを云いつけられた。
 フランツは、時計を捧げて一二間歩いた。が、ちょっとうっかりした機勢《はずみ》に何かに蹴つまずいた。はっと思う間に、大事な時計は彼の両手の間からすっ飛んで、いやというほど彼方の箱にぶつかってしまった。
 フランツはぎょっとして首をちぢめ、立竦んだ。ハンスは怒鳴りながら飛んで来た。そしてぐっとフランツの肩を掴んだ。がフランツが、あやまろうとして父親の顔を見上げると、彼は何故か、黙ってそろそろ手先の力をゆるめた。やがてすっかり肩から手をはずした。そして、却ってフランツを恐れさせた静かな口調で一言、
「もうよい、彼方へ行け」と云った。
 フランツはその時、どんなに
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