観念性と抒情性
――伊藤整氏『街と村』について――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あるがままの姿[#「あるがままの姿」に傍点]は
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   あるがままの姿[#「あるがままの姿」に傍点]は決して心理でもなければ諷刺でもない

 伊藤整氏の近著『街と村』という小説集は、おなじ街や村と云っても、作者にとってはただの街や村の姿ではなく、それぞれに幽鬼の街、幽鬼の村である。これまでの自身の中途半端な人生のくらしかたが、その街においてもその村においても、いろいろの思い出とそこに登場して来る人物すべてを作者にとって幽鬼としてしまっている。その幽鬼たちが彼という存在との接触においてかつての現実の事情の中に完成されなかったいきさつを妄執として彷徨し、私という一人物はそれらのまぼろしの幽鬼に追いまくられて遂には鴎と化しつつ、自嘲に身をよじる。それを、作者は小説のなかでもくりかえし云われているとおりな自身の情緒のシステムにしたがって組立て、芸術の美感とは畢竟描かれた世界の中にあるという立てまえによって、一箇の幻想世界をつくりあげているのである。
 この作品を、心理主義の描写という批評の言葉も見かけるし、また、現代の知識人の苦しみを最高の形で表現している作品であるという紹介などもあるようだけれども、そういう謂わば既成の専門風なものの云いかたからはなれて、この作品をごくありのままの生活とその生活に生きてゆく今日の感情の自然な関係のうちにおいて眺めた場合、読者の大部分はどんな感想をもつであろう。
 それはきっと、ひとくちに云えない感情だろうと思われる。ひとくちには云えないが、何か云いたいものがのこされる、そういう心持のする小説ではないだろうか。そして、ざっくばらんに云えば、そこがこの作者の云わば狙いどころとしての成功であり、作品のひとくせあるところでもあるのではなかろうか。作者の中には、こういうシステム[#「システム」に傍点]をもつひともあるものである。別な例だが、横光利一という作家のシステムも、わかるようでわからなく、だがあけすけに分らないと云わせないような同時代人の或る神経にひっかかりをつけてゆく技術で、妙にはたから勿体をつけて見られた作家の一人であった。

 伊藤整氏の場合、幽鬼の街と村とは、そば
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