へよってよく見ると案外にわかりやすい幾つかの土台の上に組立てられている。一つは、「僕は中途半端に生活し、中途半端にしか考えて来ませんでした」「若し生活の一片毎に誠実であろうとしたならば、僕は命を百持っていても足りなかったでしょう」「意味は八方へ拡り、すべてのものにつながっていて考えればみな締めくくりがつかなくなる」「それらの責苦に私は耐えることが出来そうもない」ほどに感じられるそれを自己の感性の鋭さと意識されている観念である。この観念と並立していて、私という人物がこれまで中途半端にしか生活もせず考えもせずに暮して来たという自嘲自責で身をよじっているとき、内心その姿に手をかけてなぐさめてとなり、合理づける囁きとして存在している、もう一つの観念がある。
 それは、あらゆる時期や場合を通じて中途半端めいた外見を自身の生活態度にあたえて来た真の動機は、私という人物が「無感動なのではない。」「人が泣くよりもっと悲しいことがどこかにあるのだ。人が私をやさしくいたわってくれるよりももっと美しい言葉が何処かにある。私はそれのために自分の心をとっておきたいのだった」「私は最上のものを、かりそめのものとしか見なかった」
と、自分のロマンティックなものを評価している観念であり、一方、日々生きてゆく上からは「世間というものが君の理想の実現を助けてやろうとして存在しているものじゃない」ことをも知り、「その理想をより完全に思うような形で実現したかったから」「普通の人間と同じような莫迦らしさと汚れとのついた人間になって見せなければならなかった」「世間は今までそこに生きていたのと全く同じような中庸な、特色も理想も圭角も持っていない人間にしか生きる道を与えないのだ」と、いずれかと云えばありふれすぎる市民の感情で世間とは受け身に対している。
 幽鬼の「街と村」とは、後篇の抒情性そのものさえごく観念的にまとめあげられている作品であるから、その作品の世界のなかでいくつかの断崖をなしている観念の矛盾はおのずからくっきりと読者の目にも映じ、作者自身がよそめに明らかなその矛盾を知ろうとしないので、まるでそれが生きる自己目的であるかのようにあの崖を顛落したりこの崖をよじったりしつついる有様には、一種の困惑を覚えさせられる。それが、この作品の後味としてひとくちに云えない感じをのこす所以であろうと思う。

 社会と思
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