などと云ってやったりした。
 お君からの手紙は、事々に親を泣かせた。
 辛い事を堪え堪えして居る様子が、たどたどしい筆行きにあらわれて、親の有難味が始めて分ったなどと書いてあった。
 お君の手紙のつくたびに栄蔵は山岸の方の話をあせった。
 けれ共、小意志[#「志」に「(ママ)」の注記]の悪い若主人は、栄蔵があせればあせるほど、糞落附きに落ついて口でばかり法律臭い事を云って、折々は却って栄蔵の方がおどかされて帰って来る様であった。

 栄蔵は、日暮方から山岸に出かけて、帰途についたのはもう日暮れ方であった。
 田圃道をトボトボと細い杖を突いて歩いて行った。
 あの小意志[#「志」に「(ママ)」の注記]の悪い若主人が机を前にひかえて、却って栄蔵をせめる様な口調でいろいろ云う様子を思いながら、遠くの方の森の上を見ながら歩いた。
 寒い風が、浪の様にドーッと云ってかぶさって来る。道の両側の枯草が、ガサガサ気味の悪い音をたてて、電線がブーン、ブーンと綿を打つ時に出る様な音をたててうなる。
 何の曲りもない一本道だけに斯うした天気の日歩くのは非常に退屈する。
 いつもいつも下を見てテクテク神妙に歩く栄蔵も、はてしなく真直につづく土面を見あきて、遠い方ばかりを見て居た。
 五六軒ならんだ人家をよぎると又一寸の間小寂しい畑道で、漸くそこの竹籔の向うに、家の灯がかすかに光るのを見られる所まで来て、何となし少しせいた足取りで六七歩行くと、下駄の歯先に何か踏み返してあっと云う間もなく、ズシーン、いやと云うほど尻餅をついてしまった。
 只ころんだだけだと思ってフイと起き上ろうとしたがどうしても腰が切れなかった。
 二三度試みて居るうちに、頭の中央と亀の尾の辺が裂けそうに痛んで来た。
 片手に杖を握り、片手に額をささえて両足を投げ出したまま痛みの鎮まるのを待った。
 町に出るものもなし、子供も食事に引き込んで居て栄蔵の周囲には、小鳥一羽も居なかった。
 冷い風が北から吹いて来て土面について居る脚や腰を凍らす様にして行く。
 痛さは納まりそうにないので、体の全力を両足に集めて漸く立ちあがり得た栄蔵は、体を二つに折り曲げたまま、額に深い襞をよせて這う様にして間近い我家にたどりついた。
 土間に薪をそろえて居たお節は、この様子を見ると横飛びに栄蔵の傍にかけよって、
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「まあどうおしたのえ。
[#ここで字下げ終わり]
と云うなり手をとって土間を歩かせ大急ぎで床を取ってやすませた。
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「ま、ほんにどうおしたのえ、
 ころびやはったんか。
「何か踏み返してころぶ拍子に強く亀の尾を打ったらしい。
「亀の尾は、悪所やさかい。
[#ここで字下げ終わり]
と云って居る間にも痛みと熱は次第に高まって行った。お節は額と打ち身の所に濡れ手拭をのせて足をさすったり、手を撫でたりして居たが、手にさえ感じられる熱の高さにびっくりして医者を迎えに行ってもらうために、一番近い家まで裾をからげて走って行った。そこの若い者に用向を話すとすぐ、年を取った女と思えない早さで我家に走り帰った。
 小一時間たってから使の若者は医者を連れて来た。立居振舞が如何にも大風で、鳥なき里のこうもりの人望を一身に集めて居る医者は、ゆっくりゆっくり、亀の尾を打った拍子にひどく脳に響いて熱が出たのだからそう大した事はないと云って下熱剤を置いて行ってしまった。
 火の玉の様になった栄蔵のわきで手拭を代える事を怠らずに、お節は二夜、まんじりともしなかった。
 四日五日と熱は一分位ずつ下って、十日目には手にも熱く感じない様になってお節は厚く礼を述べて借りて居た計温器を医者に返した。
 一日一日と頭ははっきりして行ったけれ共手足の自由がきかなかった。
 お節は、筋がつれたのだと云って居るけれ共栄蔵はもっと倍も倍も重く考えて居た。
 亀の尾を打った者は、打ち様によって死んで仕舞う位だからきっと、躰を動かす働きが頭の中から悪くなってしまったのだろうと思った。
 盲人だと云ってもいい位の体の上にまたこんな事になられては、生きて居る甲斐がない。栄蔵は、絶えず激しい不安におそわれて、自分の居る部屋の隅々、床の下、夜着のかげに、額に三角をつけた亡者共が、蚊の様な声をたてて居る様に感じて居た。田舎医者は、四肢の運動神経に故障の出来たわけが分らなかった。
 今日はよかろう、明日はよかろう、夫婦ともそれを空だのみにして居たけれ共十日二十日と立つ中にそれも絶望となってしまった。
 奈落のどん底に突落された様な明暮れの中に栄蔵は激しい肉体の悩みと心の悩みにくるしめられた。
 打ったところが、何ぞと云っては痛み、そこが痛めば頭の鉢まで弾けそうになった。
 何かして、フト手の利かない事を忘れて、物を握ろうとなどすると平にのばした腕には何の感覚もなく一寸動こうともしないのに気がつくと、血の出るほど唇をかんで栄蔵は凹んだ頬へ大粒な涙をボロボロ、ボロボロとこぼした。
 家の行末を思い、二人の不幸な子の身を思い、空しい廃人となって只、微かな生を保って居る自分を想いして、あるにもあられぬ思いがした。
 運命の命ずるままに引きずられて、しかも益々苦痛な、益々暗澹たる生活をさせられる我身を、我と我手で鱠《なます》切りにして大洋の滄《あお》い浪の中に投げて仕舞いたかった。
 始めの間は、家、子供、妻と他人《ひと》の事ばかり思って居た栄蔵は、終に、自分自身の事ばかりを考える様になった。
 出来るだけ早くこの辛い世間から抜し[#「抜し」に「(ママ)」の注記]たいと希う心、早く、無我の世界に入りたいと望む心が日一日と深くなって行った。
 めっきり気やかましくなった栄蔵に対してお節は実に忠実に親切にした。
 こう云うのも病気のため、ああ怒るのも痛みのため、お節の日々は、涙と歎息と、信心ばかりであった。
 気の荒くなった栄蔵は、要領を得ない医者に口論を吹かける事がある。
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「一寸も分らん医者はんや、
 私はもう貴方の世話んならんとええ、
 どうせなおらんものに、金をすてて居られんわ。
 さ、さっさとお帰り、
 もう決して世話んならん。
[#ここで字下げ終わり]
 五六度医者といやな思いを仕合って栄蔵はたった一人の医者からはなれて仕舞った。
 腰と首根と手足の附け根に、富山の打ち身の薬が小汚くはりつけてあった。
 一月ほど立って手は上る様になったが指先が利かなかった。
 三度の食事の度んび、栄蔵はじれて涙をこぼしたり怒鳴ったりした。
 栄蔵の体はいつとはなし衰弱して来た。
 手足がむくんだり、時に動悸が非常にせわしい事などがあったけれ共、お節は元より栄蔵自身でさえ心臓が悪くなって居ると云う事は知らなかった。
 今はもう只一人の相談相手の達に一寸でも来てもらうより仕様がないと思って、お節は人にたのんで今度の事をこまごまと書き、
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「私もたった一人にて、何とも致し様これなく候故、何卒、十日ほどの御暇をもろうて一度帰って来て御くれなされ度。
[#ここで字下げ終わり]
と云ってやった。

        (七)[#「(七)」は縦中横]

 返事をよこさないで「達」は四日目の朝戻って来た。
 あちらに勤める様になってからまだ一度もつづけて暇をもらった事がないので快く許してもらえた事を話し肩に掛けて来たカバンの中から肉のかんづめやら西瓜糖やらを出し、果物のかなり大きい籠まで持って来た。
 お節は一言云っては涙をこぼして居た。
 隣りで、「達」の声を始めて聞いた時栄蔵は、顔に血がのぼるほど一種異様な感じに満ちた。非常な喜びが心の中をはね廻りながらその陰には、口に云われない不快な感じがあった。
 その不思議な感情を押えるために達が入って来た時栄蔵は、額をしわだらけにして目を瞑《つぶ》って居た。
 父親が眠って居るのかと思ってそうっとまた出て行こうとする達を、
[#ここから1字下げ]
「達か、
 戻ったんか。
[#ここで字下げ終わり]
と呼びとめた。
 思いがけなかったので、達は少しあわてながら又元に戻って、
[#ここから1字下げ]
「只今。
 どんななんですか、
 おっかさんに手紙をもらったのでびっくりして来ました。
[#ここで字下げ終わり]
と云って父のげっそりとして急に年とって見える顔をのぞいた。
[#ここから1字下げ]
「ほんにそうなんか、
 出されて戻ったんやないか。
[#ここで字下げ終わり]
 達は真赤になって、母親に話した通り父の納得《なっとく》の行くまで弁解した。
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「そうか。
 そんならいいけど、
 先達っての事があるさかいな、
 気をつけんといかん。
[#ここで字下げ終わり]
 栄蔵は、機嫌をなおして達の持って来たリンゴのさくさく舌ざわりのいいのを喜んで、お節の止めるまで食べた。
 リンゴを食べながらも栄蔵は、どうしても達が只戻ったのではなさそうだと想った。
 いかほど考えても一週間十日の暇のもらえる筈もなく、お節が来いと云ってやる筈もない。
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 彼は巧く私を胡魔化す積りと見える。
[#ここで字下げ終わり]
 どう考えてもそうとしか思えないので、栄蔵はわざわざお節にお前ほんとに手紙で来いと云ったのかと尋ねたりした。
 お節も保証したけれ共栄蔵には解せなかった。
 達の若々しい体をながめながら一つ事ばかりを思って居た。
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「お前ほんに大丈夫なんか。
[#ここで字下げ終わり]
 夜になるまで四五度尋ねて、
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 お父さんどうしてそうなんです、
 そんなに気になるならきいて御やりなさい。
[#ここで字下げ終わり]
と云われるほどだった。
 その次の日から、一つ寝返りをうつにも若い男のゆったりした腕が、栄蔵の体の下へ入れられ、部屋の掃除などと云うと、布団ごと隣の部屋へ引きずって行く位の事は楽々された。
 お節はこの力強い手代りをいかほどよろこんだか知れない。
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「ほんにお前もいい若衆に御なりや。
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 惚れ惚れと鴨居に届きそうに大きい息子の体を見てお節は歎息する様な口調で賞めた。
 たまに見る息子は非常に利口に、手ばしこく、物分りがよく見えた。
 ちょくちょく見舞いに来る者共に一々達の事を吹聴して、お世辞にも、
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「いい息子はんを御持ちやから貴方はんも御安心どすえなあ。
 年を取っては、子のよいのが何よりどすさかい。
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と云われればこの上なく満足して居た。
 悲しい中にも後楯を得たお節は、前よりも一層甲斐甲斐しく何でも彼でもきり廻した。
 栄蔵は、今まで、自分の心にこんな感情があるとは夢にも思わなかった或る感情に悩まされ始めた。
 胸の張った、手足のすらりとし高い、うす赤い達の体が自分の傍にあると非常な圧迫を感じた。
 一つ毎に、白い三日月《みかづき》のついた爪、うす紅の輪廓から、まぼしい光りの差す様な顔、つやつやしい歯、自分からは、幾十年の前に去ってしまった青年の輝やかしさをすべて持って居る達を見る毎に押えられないしっとが起った。
 親として子の体を「やきもちやく」と云う事は実に有得ない事である。
 けれ共衰弱しきって居る栄蔵には、前後の考えもなく只、うらやましかった。
 斯う力強いものが目の前にあると余計自分の命が危くなる様で、なるたけ、そばによせつけなかった。
 何が気に入らないか教えて呉れと達が云っても返事もせず、体を動かしてもらう時、少し下手だと云っては、物も云わず、平手で達の手や顔を打った。
 もうむずかしいと思えばこそ達はその病的な叱責にあまんじて居た。
 達は、父の不快の原因をいろいろと考えたけれどもまさか、自分の肉体が、父の感情を害して居るなどとは思いつき様もなかった。
 発作的に息子を打って、そのパシッと云ういかにも痛そうな音をきくと、始めて我に帰った様になって、口をキーッと結んで打た
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