れるままになって居る息子を見て涙をこぼす事があった。
お節は、疑がとけないであの様にするのだろうと思っていろいろ達のために云い解きをしたけれ共、
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「そな事、よう分っとる、
云わんとええ。
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と云ったきりである。
三人各々異った心の中に住んで、深い夜にこめられた様な明けくれがつづいた。
達は、自分が何のためにこんな辛い日を送らなければならないか分らなかった。
父親に喜ばれ様とこそ思え、あんなに目の仇の様にされ様とは夢にも思わなかった。
四五日すると達は、そうと母親に、
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「父さんは、僕の来たのがいやなんですねえ、きっと。
だから僕はもう明日あたり帰りましょう、
居ても何にもならないから。
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と云った。
けれ共、母親は、どうぞ居てくれとたのんだ。
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「そら私も、お前の心は察します。
わざわざ優しくしてお呉れのにあんなひどくおしやはる心が一寸も分らん。
けど一寸の辛棒やさかいな、
大きい声や云われんが、
今度の病気が父はんの一番おしまいの病気かもしれへんさかいな。
私を可哀そうや思うたら、父はんとけ行かずといいから居とっておくれな。
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泣きながら母親にすがられて達は、「それでも」とは云われなかった。
栄蔵は、細い弱々しいお節ばかりを傍によんで置いて夜もろくに眠らせなかった。
達は大抵の時、隣の間で、ぽつねんと粥の番をしたり本を読んだりして居た。
(八)[#「(八)」は縦中横]
栄蔵が東京へ行く時に、大抵の金は持って行ってしまった後へ、思わぬ事が持ちあがったので、お節はこまこました物入りにいろいろ苦しい工面をして居た。
けれ共、達は、自分が貯金から出して来た三四円の金を皆、お節にあずけて、帰る旅費だけあればあとは勝手にしてよいと云った。
始めの間は、息子が自分の力で得たものを親の身として貰う事は出来ないと堅《かた》く心にきめて居たが、やはりいつとはなし心がゆるんで、ついついそれももうなくなって仕舞った。
栄蔵に云わないわけにも行かないのでお節は辛いのを押して夫にすべてを打ちあけた。土間の入口にある桐を売ると栄蔵は云った。止めてもそれより外に策がないのでお節も渋々同意して達を木屋の政と云う男を呼びにやらせた。
木屋の政の悪商法を知らないものはなかったけれ共その男の手を経なければ一本の木も売る事はむずかしかった。
翌日の夕方政はやって来た。
絹の重ね着をして、年よりずっとはでな羽織を着、籐表ての駒下駄を絹足袋の□[#「□」に「(一字不明)」の注記]にひっかけて居る。
強い胡麻《ごま》塩の髪をぴったり刈りつけて、額が女の様に迫って頬には大きな疵《きず》がある政の様子は、田舎者に一種の恐れを抱かせるに十分であった。
栄蔵の枕のわきに座って、始めは馬鹿丁寧に腰を低くして、自分の出来るだけは勉強しようの、病気はどんな工合だなどと云いながらそれとなく家内を見廻して、どうしても今売らなければならない羽目になって居る事を見きわめる。
そして彼特有のずるい商法が行われるのである。
栄蔵は、木なりを見て来た「政《まさ》」に、年も食って居る事だし、虫もついて居ないのだから、廉《やす》く見つもっても七八十円がものはあると云った。
仔細らしくあの枝を見、この枝を見して「政」はこの木はどう見ても、三四十円ほか値打ちがないと云い張った。
この木の肌を見ろの、枝の差しぶりを見ろのと立派な理屈――「栄蔵は木なりを見る目が利かない男だ」をならべたてて、私が出来るだけ出して五十円だと云い切った。
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「それに何ですよ貴方、
町方なら斯う云う木もどんどん出ましょうがここいらではそう行きませんからねえ。
何年ねかして置くかしれないものを、まあいわば、永年の御|親《した》しずくでいただくんですから。
三四十円のものを五十円で手を打ちましょうと云うのは、非常に商売気をはなれたこってす。
それでおいやだったら御ことわりです。
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これだけ云って政は、煙草をスパスパふかして一言も口を開かない。
五十円などとはあまりの踏みつけ様だ、いくら自分が目利きでないからって、これ位の事は分ると栄蔵は上気《のぼ》せた顔をして反対した。
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それなら、今売るのをやめて、どっかからそれより高く買う男の来るのを待ってらしったらよかろう。
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と意志[#「志」に「(ママ)」の注記]悪く、政は帰る様な気振りを見せたりした。足元を見こんで、法外な事はしないがいいと栄蔵は怒ったけれ共、冷然と笑いながら、
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「人の足元を見ないでいい商売は出来ませんやね。
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と云った。そしてとうとう桐は五十円で落されてしまった。
紫の雲の様に咲く花ももう見られないと達は、その木の下で、姉と飯事をした幼い思い出にひたって居た。
政が帰ってからも栄蔵は非常に興奮して耳元で鼓動がするのを感じて居た。
お節を前に置いて栄蔵は、政を罵って居るうちにフトお節の懐に何か手紙の入って居るのを見つけた。
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「何んやお前の懐に入っとる手紙は、
早うお見せ。
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お節は、ハッとして懐を両手でしっかり押えた。
そして震える声で、
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「貴方お見なはらずといい手紙なんやからな、
達によませて事柄だけきかせまっさかい。
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と云ったけれ共、栄蔵はきかなかった。
どうしても見せろと云ってきかないのでお節は仕様事なしに封を切って、始めから、栄蔵の方へ向けて繰りひろげて行った。
お金のところから来た手紙はこれまで一つもあまさず皆、針箱の引出しの中に入れて見せなかったのにこればかりは、政が来て居たのにまぎれて懐になど入れて置いて……
取りかえしのつかない事をして仕舞った。
お節は、半切れの紙に、色の変って行く栄蔵の顔を見て目をあいて居られなかった。
しまいまで読み終るといきなり破れる様な声で、
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馬鹿!
馬鹿野郎、
人が病気で居ればいい玩具や思うて勝手な事云うてさいなみ居る。
出したけりゃ早う、夫婦共に出すがええ、
人でなし。
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と云った。
お節は涙をボロボロこぼしながら、
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マアマアそう云わんで。
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と云ったけれ共、そんな事は何にもならず、息を弾ませて、ハアハア云いながら、床の上にバターン、バターンと手や足を投げつけては、大声で早口に、ふだんの栄蔵にはさかさになっても出来そうにない悪口を突いた。手を押えてしずまらせ様とした達は、拳で顎をぶたれて痛さに涙を一杯ためながら、あばれるにつれて身をかわしながら手を押えて居た。
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ウウウウ
ハアハア
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胸はひどく波打って居た。
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覚えとれ、鬼め。
ほんにほんに憎い女子《おなご》やどうぞしてくれる、わしは子供の時からお主にひどい目に会わされてる。
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断片的に、上ずった声で叫んだ。
その恐しい様子に手の出し様のないお節は顔をそむけて自分の不注意から出来たこの事を悔む涙にむせんで居た。
長《なが》い間、あばれた栄蔵は疲れた様に次第にしずまった。
少しの砂糖水をのんだ後は、近頃に珍らしい大きないびきをかいて眠りに入った。
お節は涙の中にそのいびきをきいてかすかな微笑をもらした。
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あばれた御かげで疲れやしたんやろ、
明日はけっとようなりやすやろなあ。
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お節は涙を拭いて音をたてずにあちこちと物を片づけ土鍋に米をしかけてゆるりと足をのばした。
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「ほんにまあ、珍らしい事やなあ。
今日が楽しみや。
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達も、顎の痛さを忘れるほど軽い気持になった。
自分は次の間に、お節は父親のそばに分れて部屋を暗くすると二人ともが安心と疲れが一時に出て五分とたたない中に快さそうな寝息をたてて居た。
翌朝いつまでも栄蔵は起きなかった。お節があやしんで体にさわった時には氷より冷たく強《こわば》ってしまって黒い眼鏡の下には大きな目が太陽を真正面に見て居た。
底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
1981(昭和56)年12月25日初版
1986(昭和61)年3月20日第5刷
初出:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
1981(昭和56)年12月25日初版
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年9月25日作成
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