影の方へ行って飛び込めば、橋からも遠いし、舟のつないである所からも隔って居るから見とがめられる様な事はあるまい。
水で死んだもの特有のギーンと張り切った体が水の上にただようて居るのが見えたりした。
義母のひどい事を長々と遺書にして、下駄の上にのせ、大きな石を袂に入れて……
身も世もあらず歎く母親の心を思う時、お君は、胸がこわばる様になった。
始めて目の覚めたお金奴の顔が見てやりたい。
さっきっから渋い顔をして何事か案じて居た栄蔵は、
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「私は、今夜の夜行でどうしても立って行くさかい、お前も一緒にお行き。
こんなところに居ては気づかいで重るばかりやないか。
な、そうしよう。
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立ちあがって、グングン上前を引っぱりながら出し抜けにそう云った。
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「今夜え?
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あんまり急なのでお君はまごついた。
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「ああ一刻も早い方がいいんや。
「いくら早い方がいいやかて、あんまり急やあらへんか。
それに、まだ体が動かせんさかい。
「ほんに、
知っとりながらつい忘《わっ》せてしもうた。
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自分だけは立つ積りと見えて、隅からカバンを出して、片づけ始めた。
口を酸くしてもうせめて二日だけ居てくれなければしたい話も仕切れずにあるからと引きとめたけれ共、もう腹立たしさに燃えて居る栄蔵は、
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「もう一度きめた事はやめられん。
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と云い張って、どうしても聞かなかった。
流石にあわてて居るお金夫婦を目にかけて、快い様な顔をして栄蔵は家を出た。
出しなに、お君に、汽車賃から差し引いた一円の残り金を紙に包んで枕の下に押し込んでやって、川窪から達の事について面白くない事をきいて来た、今度来たらお前から聞いて戒めて置けと云い置いた。
お君は別れの挨拶もろくに出来ないほど悲しがって居た。
栄蔵の決心は幾分か鈍ったけれど自分の心に鞭打って恭二に送られて行って仕舞った。
二人は、寒い夜道を、とぼとぼと歩きながら淋しい声で辛い話をしつづけて居た。
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「哀れなお君を面倒見てやって下さい、
私の一生の願いやさかいな。
ほんにとっくり聞いといで下さる様にな。
貴方さえ、しっかり後楯になっとっておくれやはれば、私は、死んだとて、安心が出ける。
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時に栄蔵の口から、お金を呪う様な言葉がとばしり出ると後には必ず、哀願的な、沈痛な声でお君をたのむと云った。
そう云われる度びに恭二は、何とも知れず肩のあたりが寒くなって、この不具者について不吉な事ばかりが想像された。
何故と云う事もなく、只直覚的にそう思われるのでそれだけ余計、恭二にはうす気味が悪かった。
まさか「お死になさるな」ともむきつけに云えないので、
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「どんな事があっても貴方が達者でいらっしゃらなければ……
第一に憂き目を見るのはお君ですからね、唖でも『いざり』でも生きてさえ居れば親と云うものはたよりになるものです。
せいぜい体を大切になさって、『達さん』の成功するのを見届ける様になさらなければつまりませんものねえ。
いろいろな事は皆その時の運次第なんですから。
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云う方も、云われる方も、ひやっこい何となし不安が犇々と身に迫る様に感じて居た。
(六)[#「(六)」は縦中横]
余り急に栄蔵が戻って来たのでお節は余程良い事かさもなければ此上なく悪い事があっての事だと思ってしきりに東京の模様を話せとせがんだ。
重い口で栄蔵はお君の様態、お金の仕打、ましては昨夜急に自分が立つ動機となったあのお金の憎体な云い振り、かてて加えて達の不仕末まで聞かされて、いやな事で体中が一杯になって居ると云った。
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「そらな、達も他の事で――まあ病気やなどで出されるのは仕様あらへんが、女子《おなご》の事務員に手紙などやって、先方の親に怒鳴り込まれて社から出された云うては顔が立たんやないか。
今時の若い者には武士の魂が一寸も入って居らん。若し戻りよってもきっと敷居をまたがせてはならんえ。
事によったら七生までの勘道[#「道」に「(ママ)」の注記]や。
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栄蔵は、自分と同年輩の男に対する様な気持で、何事も、突発的な病的になりやすい十七八の達に対するので、何かにつけて思慮が足りないとか、無駄な事をして居るとか思う様な事が多かった。
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「まあ飛んだ事呉[#「事呉」に「(ママ)」の注記]れた。
でも、まさか何んだっしゃろ、
その事で、出される様な事あらへんやろなあ。
何んしろ十三の時から手離して独りで働いて学校も出、身の囲りの事もしとるのやさかい、手塩にかけんで間違いが出ければ皆、力の足りぬ親が悪いのやさかい……
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お節は、二十二三になる頃までにはあの社で一かどの者になれる望がこの事で根からひっくり返って仕舞わないかと云う不安に、川窪でいずれそうなったら運動もしてくれるだろうが、今度の礼と一緒に念のためにたのんで置けと、まだ着物も着換えない栄蔵の前に硯箱を持ち出したりした。
兄を兄とも思わないで、散々に罵って好い気で居るお金に対して女らしい恨み――何をどうすると云う事も出来ないで居て、只やたらに口惜しい、会う人毎にその悪い事を吹聴する様な恨みが、ムラムラと胸に湧いてお節は栄蔵を叱る様に、
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「そやから、あんたもだまって云わいで置かんで、つけつけそな事云うもんやあらへん云うてやりなはればいいに。
だまって聞いてなはるから益々図に乗ってひどい事云うのやあらへんか。
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と云った。
先の金を返さないうちは、お金はどうせああなのだと云って、栄蔵は、もう東京の話はせず、早速|明日《あした》から、山岸の方へ行って見なければならんと、川窪からもらって来た心覚えの書きつけだの、馬場のところへ行って相談しなければならない事などを書きとめたりし始めた。
お節は、礼心に送るのだと云って、乏しい中から、香りの高い麦粉を包んだり、部屋の隅の自分の着物の下に置いてある、近所の仕立物を片したりして、急にいそがしくなった様に体を動かして居た。
翌日馬場の家へ行って、いろいろの事を聞いて来た栄蔵は、その次の日からせっせと山岸の家へ足繁く往来し出した。
役場の仕事もある事だし、複業にして居る牧牛がせわしかったりして、山岸の方へもあまりせき込んだ話はして居られないので栄蔵が仲に入った方が結局都合が好かった。
自分の職業上、相当に位置のある家から、あまり快い感情で遇されない事は、あまり喜ばしい事ではなかった。
始めの間は栄蔵もお節も山岸とはかねがね知り合いの間だから却って話もちゃんちゃんとまとまって行きそうに思って居たが、面と向って見ると、まるで見知らぬ者同志の話よりは、斯うした事は云い出し難かったりして思うほどの実も挙らなかった。
それにまして栄蔵の方が幾分身分が下だと云う事も先方の心に余裕を与えた。
山岸では二三年前に、東京の法律学校を出た息子が万事を締って、その批判的な頭で生活法を今までとは善い方にも悪い方にも改めた。
山岸の御隠居はんと呼ばれて居る政吉は、二言目には、
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「私はもう隠居なんやから、何も知らいてもらえんのえ、やや子と同じや云うてな。
息子の大けうなるもええが、すぐ隠居はんに祭りこまれて仕舞うさかい、前方から思うとったほど善い事ばかりではあらへんなあ、ハハハハ。
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と戯談《じょうだん》にしてしまっては責任を逃れて居た。
隠居は、川窪がそう金の事などにがみがみしない家なのを幸にして、いずれ返さずばなるまい位に思って居るので、あまり張のない栄蔵のかけ合位ではさほど急《せ》いた気持にもならず、夜話しに息子と三十分ばかり相談する位の事で、これぞと云う方針などは立ててもなかった。
若主人が家に一切の事をする様になってあまりしらなかった内幕に立ち入って見ると、父親の名で小千の金が借りてある。
相手が悪いものではないので幾分安心はした様なものの、こんなものまで自分について居てはやりきれないと云う様に、どうしてこいだけ借りたのだと根掘り葉掘り問いただした。
裁判官にきかれる様な気持になりながら栄蔵は、急に入用になった事業上の金と、東京に月に二度ずつ出て居るうちに出来た下らない引っ張りの女の始末をつけるために借りた事を云って仕舞った。
そんな訳なので、息子の云い出さないうちは此方《こっち》からその事を云い出すのも何と云う事はなしてれ気味なので、余計ずるずるになるばかりであった。
四五度足労をして、もう隠居に話しても仕様がないと思った栄蔵は、若主人に、細かくいろいろの事を話して、東京の川窪から智恵をつけられた通り、川窪自身が非常に差し迫った入用があって居る様に話した。
若主人は、山岸家と書いた厚い帳簿――それもこの人が新らしく始めたのを繰りながら、
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「いいや何、何ですよ、
貴方が今御話しなすった様な事情があったにしろ又なかったにしろ、川窪さんにあれだけのものを御返しするのは義務なんですから、
必ず何とかします。
何しろ、義務がある以上は当然の事なんですからなあ。
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いやに老練な法律家の口振りを真似た様な、体につり合わない声や言葉で云った。
「必ずどうかする」と云った言葉を手頼りに、栄蔵はせっせと、鼻つまみにされるほど通って居た。
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もうこうなっては根の強い方が勝つんやから。
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栄蔵は、根くらべをする気になって居た。
義理がたい栄蔵は、ちょくちょく東京へ手紙をやっては、思い通りの結果が上らなくてすまないとか、気の毒だとか云ってやった。
栄蔵が、畢生の弁舌を振っても、山岸の方へは何の効力もなかった。
あまり話がはかどらないので、仕舞いにはお金の云った事がほんとうであったのかもしれないと思う様になったりした。
途方に暮れて、馬場へも、度々栄蔵は出かけて行って二人で出かけて行った事もあったけれ共、いつも、変にパキパキした山岸の若主人の口の先に丸められて居た。
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「ああなまじ法律を喰いかじった人は、なみなみの手では行かれんもんでなあ。
あの人は、なかなかうまい事考え居《お》る。
証書を反古にするつもりで年限などを忘れさせる様にしとるんや。
東京の方へも云うてやって、委任状もろうて、証書の書き換えをさせんならん。
なあ栄蔵はん、
この村も、金臭くなって仕舞うた。
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はたして、もう一寸の間で、証書が口を利かなくなりかけて居た。
馬場と栄蔵は、その書き換えにも相当骨を折った。
証書は書き換えても、かんじんの金のしがくは何もしなかった。
お金はお金で、時々太い、うねうねした文字で、
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あなたの御手ぎわで、さぞその方の話は甘《うま》く出来る事と存じ候。
こちらも先だっての金は、とうに、ちっともござなく、御承知の事とは思いますが、近い内に、あとの金を御送り下され度候。
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などと云う葉書をよこしたりした。
いかにも人を馬鹿にした云い草や又、あまり見っともいい事でもないのにむき出した葉書でなぞ寄《よこ》すのがたまらなく気にさわった。
一人ほか居ないこの村がかりの郵便配達が、さぞ可笑しい顔をしてあの一本道をよみよみ持って来た事だろうと思うと、他人に知られずにすむべき内輪の恥がパッと世間に拡がった様な気がして、居ても立っても居られない様になった。
早速、その返事のかわりに、
あんな事を葉書でよこす馬鹿が何処にある
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