父親を起すまいと気を配りながら折々隣の気合[#「合」に「(ママ)」の注記]をうかがって、囁く様に恭二に話した。
 川窪で若し断わられたらどうしよう、東京中で川窪外こんな相談に乗ってもらう家がない。
 どうもする事が出来ずに父親が帰りでもしたら又何と云われるか分らない。
 それでなくてさえ、
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「義母はんはこないだも義父はんと云うてでしたえ、
 若しお金をどむする事出けん様やったら私早う戻いて仕舞うた方がええてな。
 義母はんは、若しもの時はそうきめて御出でやはるんえきっと。
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 恭二は、行末の知れて居る様な傾いた実家を思うと、金の無心も出来ず、まして、他の人達のする様にそっと母親の小遣いを曲げてもらうなどと云う事も、母の愛の薄いために此家へ来た位だから到底出来る事ではなかった。
 中に入って板挾みの目に会いながら、じいっと押しつけられて居るより仕様がなかった。
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「そんな事は口の先だけなんだよ。
 何ぼ何だってそんな事が出来るわけのものじゃあないじゃないか、
 大丈夫だよ。
 義母《おっか》さんがよしそう云ったからって、私まで同意すると思うんかい。
「そんな事思わんけど……
 貴方やかて、血を分けた息子はんやあらへんもん、
 なあ。
「そう云えばそれまでだが……
 一っそ二人で追い出されて行くさ、
 それが一番早く『けり』がついていいじゃあないかい。
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 何と云う事はなしに恭二の口から世間の味を噛《か》みしめた人の様な口調でこんな言葉がすべり出た。
 別にお君をこの上なく美くしいとか、利口だとか又は可愛とかは思って居るのではないけれど、恭二の心の中には一種、他の愛情とは異った、静かな、落ついた愛情が萌えて、自分ばかりをたよりにして居る女をかばってやる事は当然自分の尽すべき事の様に考えて居た。
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「自分が居る以上必[#「必」に「(ママ)」の注記]してそんな事はさせない。
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 恭二は、十七八の青年の様に真正直に心に思った。
 実の親子でないので余計お君の云う事ばかりが信じられて、留守の間にあれこれ厭味を云われて、わびしく啜り泣いて居るお君の姿をいじらしく想像したりした。
 けれ共、正直で気の弱い恭二は、お金の仕打があんまりだと思う様な事があっても、口に出して、
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「そんな事をしてくれるな。
[#ここで字下げ終わり]
とは、どんなにしても云えなかった。
 何かいざこざが起ったりすると、目顔ですがるお君を見向きもしないで、盲《めくら》滅法に、床屋だの銭湯に飛び込んだ。
 そうも出来ない時には、部屋の隅にかたく座って、眼も心もつぶって、木像の様に身動きさえもしなかった。
 只、専ら怖れて居ると云う様にして居た。それだから恭二自身も、いざとなった場合、はっきり、
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 私が不賛成です。
[#ここで字下げ終わり]
と云い切れるかどうかが疑問であったし、お君も亦、頼む夫が、ふらりふらりして居るので、余計、取越苦労や廻し気ばかりをして居た。

        (五)[#「(五)」は縦中横]

 烈しい風がグーン、グーンと吼えて通る。黄色い砂が津浪の様に押寄せて来ては栄蔵の鼻と云わず口と云わずジャリジャリに汚して行く。
 ややもすれば、飛びそうに浮足立って居る、頭に合わない帽子を右手で押え片方の手に杖を持って、細い毛脛を痛いほど吹きさらされながら真直な道を栄蔵はさぐり足で歩いて行った。
 転ぶまい、車にぶつかるまい、帽子を飛ばすまい、栄蔵の体全体の注意は、四肢に分たれて、何を考える余裕もなく、只歩くと云う事ばかりを専心にして居た。
 肩や帽子に、白く砂をためて家に帰りつくと、手の切れる様な水で、パシャパシャと顔や手足を洗うと栄蔵は、行きなりお君の前に座って、懐の煮〆めた様な財布の中から、まだ新らしい十円札を出してピタッと畳に起[#「起」に「(ママ)」の注記]いた。
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「どうおしたのえ、それ。
[#ここで字下げ終わり]
 お君は、びっくりしてきいた。
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「川窪はんで、今月の分にとお呉れやはったんや。
 来月は、どうなるんやか私は知らん。
「何故?
「国に貸したものがあるさかい何の彼の世話やいてもろうとる、あの役場の馬場はんと一緒になって、幾分なりと入れさせる様にすれば、それから裂いで廻してやろ云うてなはるんや。
「そいならあの新田の山岸はんの事ったっしゃろ。
 あそこの旦はんと父はんとは知合うてやもん、何でもない事ってっしゃろ。
「あの先の主人の政吉はんとは知っとるが、この頃では、東京の学校を卒った二番目の息子が何でもさばいて、あの人はもう隠居同然にしとるんやからなあ。ほらあの、父親のつけた名が下品やとか云うて自分で、何男とやら改名した人や。
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 金の事になると馬鹿に耳の早いお金がいつの間にか、栄蔵の傍に座って話をきいて居た。
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「川窪さんでもよくそいだけ出してくれましたねえ、
 内所がいいと見える事。
 私はきっと無駄骨だと思って居たが。
「世の中は、うまく出けたもんで捨る神あれば又拾う神ありや。鬼ばかりは居らへん。
「有難いもんですねえ。
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 お金は十円札に厭味な流し眼をくれて口の先で笑った。
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「けど何なんでしょう、
 それだけで一年分をすませるつもりなんでしょう。
 まさか一月分ホイホイ出す人もないだろうから……
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 栄蔵は、よく丁寧に、田舎の貸金の事を話した。
 フム、フム、と鼻をならして聞いて居たお金は話が仕舞うか、仕舞わないに、
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「あんた、ほんとにそれの世話を焼くつもりで居るんですか。
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と短兵急に云った。
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「ああ。
「お目出たいわけだ、
 返すもんですかね。返さないにきまってるから川窪さんで、返したらやろうと云ったんでさあね。
 馬鹿馬鹿しい、
 たった十円で、うまくおっぱらわれて来てさ。
「お前みたいに、何もかも疑ごうとったらきりがあらへんやないか。
 川窪はんに限って、そんな事する人は居ん。
 おっぱらわれたなんて、私は『強請《ゆすり》』に行ったんやあらへんよ、
 たのんで出して御呉れ云うて来たんや。
「いくら貴方ばかりそうやって力んだっておっぱらわれたに違いないんですよ、
 私なら、眠ってたってそんな鈍痴《どち》な真似はするもんか。
 漸う巧く見附けたと思ったらすぐポカと手放して仕舞うんだもの、
 そんなだから話のらちが明かないんですよ。
「いい加減にしよ、
 川窪はんの云いはる事なら間違いないと思うとるんやさかい、ああやって、出来にくい相談にも乗ってもろうたんやあらへんか。
 よりどこのない空世辞を並べる人とは違う、
 先代からの人を見て私にはよう分っとる。
「そいでもね、時には嘘も方便ですよ。ね、世の中を正直一方に通したら十日立たないうちに乞食になってしまう時なんですよ。貴方みたいな人の好い事ばかり云って居る人は、自分の首をちょんぎられても御礼を云うんでしょう。
 馬鹿馬鹿しい。
 ほんとに『阿呆《あほ》らしい』ってのは、こう云う事を云うじゃありませんか。
 ああ、ああ。
[#ここで字下げ終わり]
 お金は、黒ずんだ歯茎をむき出して、怒鳴り散らした。
 栄蔵にも、お君にも、「今月分」として十円だけもらって来たのがどれだけ馬鹿なのか、間抜けなのか分らなかった。
 家の様子も知らないで、やたらに川窪を疑って居るお金の言葉に、栄蔵は赤面する様だった。
 ああやって心配して、気合をかけて、病気をなおす人の名や所まで教えた上、痛んだら「こんにゃく」の「パっぷ」をしてやれなどと云って呉れたあの家の主婦に対して、あまり人を踏みつけた様な言葉を吐かれる度に、裏切って居る様な感じがして居た。
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「お前、そんなに川窪はんを疑うてやが、お前ならどうする積りなんえ?
「私?
 私なら、きっきと毎月出すと云う書き物でももろうて来る。
「そんな事、出来ると思うとるんか。
 人に金貸して、利息でも取り立てる様に書き物を取るなんて……
 こっちは、出してもらう身分やないか。
 一つ首を横に振られれば、二度と迫られない身やないか。
 そんな心掛やから、子も何も出来んのえ。
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 早くから里子にやられて、町方の勘定高い店屋に育ったお金が、あまり金臭いので栄蔵は今更ながらびっくりした。
 一体、人なみより金銭の事にうとい栄蔵の目には、お金の実力より以上に金銭に対して発動する力の大きさ猛烈さがうつった。
 あきれて口を噤んだ兄の前でお金は云いたいだけの事を並べた。
 夜着をすっぽり被った中でお君は、妹につけつけ云われ目下に見られてされるままになって居る父親がいたわしく又歯がゆく思われた。
 いつか芝居で見た様に小判の重い包で頬をいやと云うほど打って、畳中に黄金の花を咲かせたい気がした。
 目の前に、金の事となると眼の色を変えてかかる義母の浅ましい様子を見るにつけ、田舎の、身銭を切っても孫達のためにする母方の祖母や、もう身につける事のない衣裳だの髪飾りなどをお君の着物にかえた母親が一層有難く慕わしかった。
 上気して耳朶を真赤にし「こめかみ」に蚯蚓《みみず》の様な静脈を表わしてお金は、自分でも制御する事の出来ない様な勢で親子を攻撃した。
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「何ぼ私が酔狂だって、何時なおるか分らない様な病人の嫁さんに居てもらいたいんじゃありませんよ。若し、何と云っても自分の懐をいためるのがいやだと云うんなら誰の苦情があっても、子供のないうちにさっさと引き取らせて仕舞う。
 頭の先から尻尾《しっぽ》の先まで厄介になりながら、いい様に掻き廻すものをどうして置くわけがあるんですい。若し、恭二がかれこれ云う様なら二人一度に出すまでの事さ。
 お君だって家にとってさほど有難い嫁さんでもないし、又恭二位の男ならどこにだってころがって居るわね。
 私は、嫁入り先をつぶす様な嫁さんは恐しくて置けないよ。
 若し始めっから潰す量見で来たんならもう少し潰しでのあるところへお輿《みこし》を据えたらいいだろう。
 何も二人に未練はありゃあしない。
 ああさっぱりしたもんさ、水の様にね。
[#ここで字下げ終わり]
 あんまり調子づいて、心にない事まで云って仕舞ったお金は、ホッとした様に溜息を吐いて体をぐんなりさせて片手を畳に突いた。
 ガリガリと簪《かんざし》で髷の根を掻いて居る様子はまるで田舎芝居の悪役の様である。
 あまり怒って言葉の出ない栄蔵は、膝の上で両手を拳にして、まばらな髭《ひげ》のある顔中を真青にして居る。額には、じっとりと油汗がにじんで居る。
 夜着の袖の中からお君の啜泣きの声が、外に荒れる風の音に交って淋しく部屋に満ちた。
 昨日、栄蔵の買った紅バラは、お君の枕元の黒い鉢の中で、こごえた様に凋《しぼ》んでしまって居た。

 夜になっても栄蔵の怒りが鎮まらなかった。
 顔には一雫の紅味もなく、だまり返って腕組みをしたまま考えに沈んで居た。
 お君は、額際まで夜着を引きあげた黒い中で、自分が出されて国に戻った時の事を、まざまざと想って居た。
 狭い村中の評判になって、
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「お君はんは病気で戻らはったてなあ、
 どうおしたのやろ。
 病気や云うても何の病気やか知れん、
 病気も、さまざまありまっさかいな。
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などと、常から口の悪い、村に一人の女按摩が云うに違いない。
 そして、親達には済まない思いなどをするより今いっそ、一思いに川にでも身を投げて仕舞った方が、どれだけいいかしれない。
 お君の眼の前に、病院へ行く道の、名を知らない川が流れた。
 あの彼側の堤の木の
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