。
「そんな、阿房な事あるもんか、
でも、わしに来い云うてんやが、実際困って仕舞うなあ。
第一行く金からしてあらへん。
[#ここで字下げ終わり]
少しばかりの金の事で、度々辛い目にも会っては居ても、親身の娘の病気となると、余計に、ふだん、欲しくない金も欲しくなった。
貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]しても、コンミッションで喜ばれるよりええと云って、空元気をつける栄蔵も、お節の心が今となって、しみじみ味わわれた。嫁入りの時作った小紋の重ねだの、八二重の羽織などにかけた金が今あったらと、今手元にあったら、買って仕舞わないものでもない[#「ない」に「(ママ)」の注記]ほど、金の光が恋しかった。
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「そいでもな。
[#ここで字下げ終わり]
お節は、沈んだ声で、うつむいて、ひろげた手紙を巻きながら重く口を開いた。
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「貴方《あんた》行んでおやんなはれ。
あんなに、常々つけつけ云うお金はんやさかい、どんな事云われとるか知れんさかい。
な、私で話が分るんなら行んでも来ようが、こう云う事は、女子ではらちが明かんさかいな。
病気になった時、親にはなれて居るほど心細いものはあらへん。
汽車賃位いどうでもしまっさかい。
「私《わし》が行く様《よう》んなったら汽車代だけやすまん。
お金奴、あらいざらいの勘定をさせる魂胆なんやから、素手でも行かれんわな。
[#ここで字下げ終わり]
お節は、いざ栄蔵が行くとなると、ぜひ持たしてやらなければならない金高を胸算用した。
汽車賃、小使い、お君へかかったものの勘定、あれやこれやではなかなかさかさに立っても、出せないほどの高《たか》になった。
筒袖を着物の様に合わせた衿に深く顎《あご》を埋めて、金の出所をお節は思案した。
東京の様な質屋めいた家もないではないけれども、栄蔵の元の位置を考えれば、まさかそんな事も出来ないし、今急に、少しでも田地を手ばなす気にもなれなかった。
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「ほんにどうかならんかな。
[#ここで字下げ終わり]
お節は意地のやけた様に、玉のないそれでも本銀の簪《かんざし》で、櫛巻にした少しの髪の間を掻きながら、淋しそうに、ランプの灯の前に散って来る細かい「ふけ」を上眼に見て居た。
別にいい考えも浮んで呉れない。
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「ま、何せ、旅費位、どうでもなるんやさかい、
ほんにいんどくなはれな。
今、十五六円ばかり、すっかりで、ありまっさかい。そい持ってお行きやはったら、ようおっしゃろ。
仕事の手間や何かで、私など、どうでもして行かれまっから。
[#ここで字下げ終わり]
お節は、気のすすまなそうに、行くとも行かんとも云わずに、ムッつりして居る栄蔵の顔を見た。
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「そやな、
どうでも行かずばなるまいかな。
ほんに、私《わし》も貧乏な懐で、金のぱっぱと出入する東京には、行きとうない。
戻って来る時、財布は、空っぽになっとってる様やったら、随分、何だろが。
[#ここで字下げ終わり]
あらいざらいの金を、お手っぱらいに出した後《あと》をどうするのだろうと云う懸念が、栄蔵の頭からはなれなかった。
けれ共、行かないわけには行かない。
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「お君も、縁に薄い子だすえなあ。
貧乏な親は持つし、いやな姑はんに会うし。
そいに、何ぼ何やて、お金はんも、あんな業慾な人やないやろ思うてましたものなあ。
まあ、まあ、
何んも彼も、めぐり合わせや。
私が、いくらややこしゅう云うたとて、何んもならへん……
[#ここで字下げ終わり]
と云うと、お節は、心配にだまり返って、仕事を片づけ始めた。
虎の子の様にしてある二十円近い金を手離なさなければならないのを思って、寒い様な気持になったお節は、ランプの、わびしい黄色い灯かげを見ながら、
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「アアアア
[#ここで字下げ終わり]
と生欠伸をかみころして、生ぬるい、ぼやけた涙をスルスル、スルスル畳にこぼした。
乏しい懐のまま、栄蔵が旅立って行ってしまってから、ぽつんとたった一人になったお節は、長火鉢の下引出しに入れた五十銭の金のなくならないうちにと一生懸命に人仕事をした。
かなり困った生活をして居るのに、士族の女房が賃仕事なんかする奴があるかと云って栄蔵は、絶対に内職と云うものをさせないので、留守の間にと、近所の者達のところから一二枚ずつ、
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「一人で居るので、あんまり所在ないから。
[#ここで字下げ終わり]
と云って仕事をもらって来て居た。
出来るだけの事をせんではと一心に思って居るお節は仕事をたのんだ百姓共が、
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「ほんにこの頃は、よっぽどひどい様に見えますなあ。何んしろ、ああやって旦はんに何もせいで居られては、偉う大尽はんやかて、食い込むさかい無理もあらへん。
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と、半分同情的な、半分は見下げ気味な噂をするのに耳もかさなかった。
一体に百姓女は手先が利かないので、かなりまとまったものもこなせるお節は、困らないで居られた。暖い部屋で、ポツポツ、ポツポツ針を運んで居るお節を見て、村から村へ使歩きをして居る爺の松の助がちょくちょく立ちよって、親切に慰めるつもりで、伝えふるした様な、評判だの噂さだのを話す事があった。
隣村のかなりの百姓で、甚さんと云う家がある。そこの息子に、去年嫁をもらった。
評判の美人で、男の気には大層入って居たけれ共、病的に「やきもち」のひどい姑が、二人で一部屋に居させないほどにして居た。
そうすると、先達ってうちから身重になったところが、それを種にして嫁を出してやろうと謀んで、自分の娘とぐるになって、息子あてに、中傷の手紙を無名で出した。
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「お前の嫁は、作男ととんでもない事をしてその種を宿して居る。
お前のほんとの子だと思うと大した間違いだ。
おっつけられないうちに、どうとかしたらよかろう。
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姑は、それをつきつけては嫁をいびった。
息子は、信じなかったけれ共、あんまりせめられ様がひどいので、取りのぼせて、自分で猿轡《さるぐつわ》をはめて、姑の床のすぐ目の前で、夜中に喉をついて仕舞った。翌朝、姑が目を覚ました時、血だらけの眼をむいてにらんで居た。
松の助は、古い講談をする様にお節に話した中には、こんな事もあった。
気がまぎれないのでいろいろの事に思いふけって、
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「お君もほんに、一気な事をせん様に云うてやらんけりゃあなあ、
あのお金はんに、いびり殺されて仕舞う。
[#ここで字下げ終わり]
などと思って居た。
十三の年から東京に出て、他人の中に揉まれて居るあととりの達の事、お君の事などが入りまじって心配になって、もう一っそ一思いに、夫婦と、子供等一っつながりになって、ボチャンとやってしまいたくなどなった。
東京からの便《たよ》りを待って、お節は暗い日を送って居た。
(三)[#「(三)」は縦中横]
六年で出て見る東京の町は、まるで、世が変った様になってしまって居る。
栄蔵は、汽車を乗[#「乗」に「(ママ)」の注記]りるとすぐから、うっかり傍見も出来ない様な、気ぜわしい、塵っぽい気持になった。
ぐずぐずして居ると突飛ばされる、早い足なみの人波に押されて広場へ出ると、首をひょいとかたむけて、栄蔵の顔をのぞき込みながら、揉手をして勧める車夫の車に一銭も値切らずに乗った。
法外な値だとは知りながら、すっかり勝手の違った東京の中央で、大きな迷子になる事も辛かったし、十銭二十銭の事に、けちけちする様に思われたくないと云う身柄にない見えもあった。
広い通りや、狭い通りを抜けて、走る電車の前を突切る早業に、魂をひやしてお金の家へついたのは、もう日暮れに近かった。
格子の前で、かすかに震える手から車夫にはらってから、とげとげした声で、
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御免
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と云った。
内から首を出したのは、思い通りお金であった。
栄蔵は一寸まごついた様に、古ぼけた茶の中折れを頭からつまみ下した。
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「おやまあ、これはこれは御珍らしい。
さあ、どうぞ、お上んなすって。
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と、栄蔵の手から軽い、すべっとしたカバンを受けとって、
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「お前、お待ちかねの方が御出でだよ。
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と奥へ怒鳴った。
通された茶の間めいた処に座って、お金が、格子に錠をかけ、はきものの始末をつけて来るまで、周囲の様子を見廻した。
柱でも、鴨居でも、何から何まで、骨細な建て工合で、ガッシリと、黒光りのする家々を見なれた目には、一吹きの大風にも曲って仕舞いそうに思われた。
小道具でも、何んでもが、小綺麗になって、置床には、縁日の露店でならべて居る様な土焼の布袋《ほてい》と、つく薯みたいな山水がかかって居た。
お金は、すっかり片づけて来て、兄の前にぴったりと平ったく座ると、急にあらたまった口調で、無沙汰《ぶさた》の詫やら、お節の様子などを尋ねた。
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「ほんにねえ、
私も今度の事じゃあ、どんなに苦労したかしれやしないんですよ。
何しろ、まだ、ここへ来て幾《ど》いだけもたたない人なんですしするから、手ぬかりが有っちゃあ私の落度だと思ってねえ。
実の娘より心配するんですよ、ほんとに。
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病気の経過だの、物入りだのを、輪に輪をかけて話して、仕舞いにはきっと、自分の益《ため》になる方へと落して行った。
栄蔵は、いやな女だと思いながら、我慢してその話をきき終るとすぐ、お君の部屋へつれて行かせた。
すぐ、襖一重の隔たりだのに、何故、始めから此の部屋へ通さないのかと云う様な、つまらない不平まで起って来た。
枕元に座ると、お君はもう何とも云えない気持になって、
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父はん、
よう来とくれはったなあ。
[#ここで字下げ終わり]
と云うなり、この半年ほどと云うもの堪え堪えして居た涙を一時にこぼした。
[#ここから1字下げ]
「どうや、
母はんが偉う案じとる。
わしも、こんなやさかい、来んとよかろう云うたんやけど、行け行け云うたので出て来たんや。
さほどでもあらへんやないか、
やせ目も見えんやないか、なあ。
[#ここで字下げ終わり]
病後の様に髭を生やして、黒目鏡をかけた貧しげな父親の前に、お君は、頬や口元に、後れ毛をまといつけながら子供の様に啜泣いて居た。
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ほんによう来とくれやはった、
まっとんたんえ、父はん。
[#ここで字下げ終わり]
口下手なお君には、これ以上云えなかった。云いたい事が胸先にグングンこみあげて来は来ても、一|連《つなが》りの言葉には、どうしてもまとまらなかった。
お金への手土産に、栄蔵は少しばかりの真綿と砂糖豆を出した。
こんなしみったれた土産をもらって、又お金は何と云うかと、お君は顔が赤くなる様だったけれ共、何か思う事があると見えて、お金は、軽々振舞って、
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よく見て御出で、
こんなにお君を親切にしてやったのだから。
[#ここで字下げ終わり]
と云う様に、頼みもしない髪をかき上げてくれたり、茶を入れてくれたりした。
お君には、それが、いかほどか口惜しかった。
お金が台所へ立ってしまうと、お君は父親をぴったり枕のそばに引きつけて、ボソボソと低い声であらいざらいの事を話して愚痴をこぼしたり、恨みを並べたりした。
毎月一週間ずつ入院して、病のある骨盤に注射をしたり、膿を取ったりしなければならないので、かなりの物が入る。
金ばなれの悪い姑から出してもらう事は、いかにも心苦しいと云った。
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「そらなあ、
お大尽はんやあら
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