、息子の恭二と父子が出かけたあとは食事時の外大抵は、方々と話し歩いて居るお金が、たまらなく小憎らしかった。
 みじかい袂に、袂糞と一緒くたに塩豆を入れたりして居る下等な姑から、こんな小言はききたくないと云う様な気にはなっても、気の弱い、パキパキ物の云えないお君は、只悲しそうな顔をして、頭をゆすったり夜着を引きあげたりするばかりであった。
 病気になったその日からお君は絶えず、
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 どうしよう
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と云う感じに迫られて居た。
 この考えは、何事をもたじたじにさせた。
 只どうしようと云うばかりに国許へは一度も知らせてやらなかったし、弟に来てくれとも云ってやらなかった。
 それが、どう云うわけと云うではなく、只、どうしていいか見当のつかない様な心から起った事である。
 塩からく、又生ぬるい涙が、眼尻りから乱れた髪の毛の中に消えて行った。
 お金は、行こうともしずにピッタリお君のわきに座って居る。
 お君は、救を求める様に、シパシパの眼をあいたりつぶったりして居ると耳元で、何かが、
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「お父さんに来てもろうたがいい
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と云う様に感じた。
 お君は、いかにも嬉しそうに、パッとした顔をして、一つ心に合点すると共に、喜びを押えつけた様な低い鼻声で、
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「父はんに、来てもらお思うとるんやけど、どうどましょうなあ。
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と云った。
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 そうさねえ、それも悪かああるまいよ、
 来てどうにかなればねえ。
 けど、何んに来たんやら分らない様にして、只食べるばかりで帰られちゃあなお尚だが。
 そいで、まあ、父さんでも来たら何ぞって云うあてがあるのかい。
「別に何ぞって――
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 お君は、がっかりした様な声で眼の隅から鈍くお金を見て返事をした。
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「とにかくそいじゃあそうして見るがいいさ、いくら彼んな人だって男一匹だもの、どうにかして行くだろうさ。
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 お君は、今先[#「先」に「(ママ)」の注記]ぐにも手紙を書こうかと思ったけれ共、両眼ともが、半分|盲《めし》いて居る父親が、長い間、臭い汽車の中で不自由な躰をもんで、わざわざいやな話をききに来なければならないのを思うと、髭《ひげ》を物臭さに長く生やして、絶えず下目をしてボツボツ低く話す、哀れな父親の姿が目前に浮いて見えた。
 父親がきの毒で、一時は、書くのを止めようかとも思ったけれ共、さりとて、黙ったまますむ事でもないので、ロール手紙に禿《ち》びた筆で、不様な手紙を書き始めた。
 まとまりのない、日向の飴の様な字をかなり並べる間、お金は傍に座って筆の先を見ながら、自分の息子にあまり益のない嫁を取った損失を考えて居た。
 始め、恭二を養子にする時だって、もう少しいい家から取るつもりで居た目算が、ひょんな事からはずれて先の見えて居る家などからもらってしまったし、又お君でも、いくら姪《めい》だと云っても、あまり下さらない女をもらってしまって、一体自分等は、どうする気なんだろうと云う様な事を思って居た。
 嫁の実家、又は養子の実家のいいと云う事は、なかなか馬鹿に出来ないものだのに、フラフラと出来心でこんな事をして、揚句は、見越しのつかない病気になんかかかられて、食い込まれる……
 お君が半紙をバリバリと裂いた音に、お金の考えが途中で消えた様になって仕舞った。
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 アア、アア
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とけったるそうな、生欠伸をして、
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「さあ御晩のしたくだ、
 この頃の水道の冷たさは、床の中では分らないねえ。
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と云って、ボトボトと立ちあがった。
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「ほんにすまん事、
 堪仁[#「仁」に「(ママ)」の注記]しとくれやす。
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と云いながら「いやになり申候」と書き切って頭をあげると、すっかり知らない間に陰が濃くなって、部屋の隅のものは只うす黒く浮いて見えるほどになって居た。
 小窓からも、縁側からも入った奥に居る自分の近所は、気がつけばつくほど暗くて、よくまあ、これで物が書いて居られたと思うほどであった。
 狭い狭い台所で、水のはねる音を小うるさくききながら、夫《おっと》や舅の戻らないうちにと、筆の先に視力を集めて、はかの行かない筆を運ばせた。
 一枚半ほどの手紙を書き終った時、パット世界が変《かわ》るほど美くしい色に電気がついた。
 大きな字で濃く薄くのたくった見っともない手紙を、硯のわきに長く散らばしたまま、お君は偉く疲れた気持で、ストンと仰向になった。
 瞼の上には、眠気が、甘ったるく、重く、のしかかって来る。
 やがて、恭二などが帰って来る頃なので、髪をまとめるつもりで頭に手をやりはやっても、こらえきれないねむたさに、その手をどうにも斯《こ》うにもする事が出来なかった。
 二時間ほどして、二人が戻った頃には、お君は、黄色い光の下で、たるんだ顔をなげ出して、いびきをかきながら夢も見ない眠りに陥ちて居た。

        (二)[#「(二)」は縦中横]

 何かにつけて頼りになるべきお君の実家《さと》は、却って自分が頼られるほど貧しい、哀れな生活をして居た。
 元は村のかなり好い位置に居て、人からも相当に立てられて居た身も、不具者になっては、どうともする事が出来ない。
 生きなければならないばかりに栄蔵(お君の実父)は、自分より幾代か前の見知らぬ人々の骨折の形見の田地を売り食いして居た。
 働き盛りの年で居ながら、何もなし得ないで、やがては、見きりのついて居る田地をたよりに、はかない生をつづけて行かなければならないと云う事を思うと栄蔵の胸は堅《かた》くなって仕舞う。
 家中のものからたよられて居る身であるのを思えば、自分の男だと云う名に対しても斯うしては居られない気になった。
 けれ共、勿論働く方法も見つからなかった。栄蔵は、一思いに、体の半分が無くなった方がどれほど楽か分らないと思うほど、刻一刻と世の中が暗くなる「そこひ」と云う因果な病にかかった事を辛がった。道を歩くにもすかしすかししなければ行かれないほどになってからは、自分でも驚くほど、甲斐性がなくなり、絶えず、眼の前に自分をおびやかす何物かが迫って居る様に感じだした。
 物におどおどし、恥しいほど決断力も、奮発心も失せてしまった。
 貧と不具にせめさいなまれて、栄蔵の神経は次第に鈍く、只悲しみばかりを多く感じる様になった。
 今度お君を自分の妹の家へやるについても、栄蔵の頭には、これぞと云った父親らしいまとまった考えは何一つなかった。
 只、母親のお節が、狭い村中の母親共に「ほこり」たいため、チンとした花嫁姿が一時も早く見たかったため殆ど独断的に定めてしまったと云ってもいいほどである。
 気心の知れない赤の他人にやるよりはと云い出したお節の話が、お節自身でさえ予気[#「気」に「(ママ)」の注記]して居なかったほど都合よく運んで、別にあらたまった片苦しい式もせずに、お君は恭二の家のものになってしまった。
 田舎に居て、東京の様子に暗い夫婦は、血縁と云うものが、この世智辛い世の中で働く事を非常に買いかぶって、当座は大船にでも乗った様な気で居た。けれ共、折々よこすお君からの便り、又、東京に居る弟の達からの知らせなどによると、眉のひそまる様な事がやたらとあった。
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「どこもこんなもんよ。
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 栄蔵は、若いものには苦労させるのが薬だと云ってさほどにも思って居なかったし、又、今となってどう云ったところで、始まらないともあきらめて居た。
 娘があんまり利口《りこう》でもないしするから、片方の口は信じられないと、女の子によほど心を傾けて居ない栄蔵は、やきもきして、どうにかせずばとさわぐお節をなだめて居た。
 仕舞には、きっと、
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「今になって、何や彼やわしにやかましゅう云うてんが、知らん。
 お前が、せいて、早う早う云うてやったんやないか。蒔いた種子位、自分で仕末つけいでどうするんや。勝手もいいかげんにしとけ。
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と、とげとげしい言葉になって、気まずく寝て仕舞うのが定だった。

 暗いラムプの灯の下で、栄蔵はたのまれて書き物をして居る。
 落ちた処ろどころをそろわない紙で抑えた壁に、大きな、ぼやけた影坊子[#「坊子」に「(ママ)」の注記]が、身じろぎもしないで留まって居る。赤茶色の箪笥、長火鉢、蠅入らず、部屋のあらいざらいの道具が、皆、テラテラ妙に光って、ぼろになった畳と畳との合わせ目から夜気がつめたくすべり込んで来る様だった。
 火の気のない、静かな、広い畑の中にポッツリたった一軒家には、夜のあらゆる不思議さ、恐ろしさ、又同時に美しさも、こもって居る。
 年を取って、もう、かすかな脈が指にふれるばかりのこの人でさえも、あまりの静けさ、あまりの動かない空気の圧迫に驚いて、互に顔を見合わせ、
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「静だすえなあ。
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と云うほどであった。
 弱い弱い視力を凝らして、堅い字を、罫紙にならべて行くうちに眉間《みけん》が劇しく痛んで、疲れのために、字のかくは離れ離れになり、字と字の間から、種々なまぼしい光線が出て、こちゃこちゃに入り混って、到底見分けて居られなくなった。
 紙をまとめて、机代りの箱の上にのせ、硯に紙《かみ》の被をし筆を拭くと、左の手でグイと押しやって、そのまんま燈《あか》りの真下へ、ゴロンと仰向になった。
 非常に目が疲労すると、まぼしかるべきランプの光線さえ、さほどに感じない様になるのだ。
 黒い眼鏡の下に、一日一日と盲いて行く眼をつぶって気抜けのした様な、何も彼にも頭にない様な顔をして居た。
 なげ出した顔をお節の方から見ると、明らかに骸骨の形に見えた。
 非常に頬骨が高い性《たち》の所へ大きな黒眼鏡をかけて居るのでそれが丁度「うつろ《洞》」になった眼窩の様に、歯を損じた口のあたりは、ゲッソリ、すぼけて見える。
 お節は、つぎものの手を止《と》めて、影の薄い夫の姿を見入った。
 地の見える様な頭にも、昔は、左から分けた厚《あつ》い黒々とした髪があったし、顔も油が多く、柔い白さを持って居た。栄蔵の昔の姿を思い浮べると一緒に、小ざっぱりとした着物に、元結の弾け弾けした、銀杏返しにして朝化粧を欠かさなかった、若い、望のある自分も見えて来た。
 無意識に手をのばして、自分の小さい櫛巻にさわった時、とり返しのつかぬ、昔の若さをしたう涙が、とめ途もなくこぼれた。
 涙に思い出は流れて、目の前には、不具な夫の小寂しい姿ばかりが残るのである。
 ややしばらく身動きもしないで居た栄蔵は、片手をのばして、お節の針箱のわきから、さっき来た手紙を取った。
 娘の手蹟を、なつかしげに封を切って、クルクルクルクルと読んで仕舞うと、ポンと放り出して、
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「あかん。
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とうめく様に云った。
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「何んや、
 どこからよこいたんどすえ。
「東京――お君からよ。
 病気になって、偉う困っとる云うてよこいたんや。
 腰の骨が膿んだ云うてやが、そんな事あるもんやろか、
 とんときいた事はあらへんがなあ。
「え? 腰の骨が膿んだ。
 まあまあ、どうしたのやろ、
 あかんえなあ。
 そいで何どすか、切開でもした様だっか。
「うん先月の十一日に切ったそうや。
 もう一月やな。
 そいに、何故、もっと早う云うて来んのやろ。
 何と思うて、今まで、延ばしよったんか、そいやから彼《あ》の娘《こ》、いつもいつも抜けや云われるんや。
「ほんにまあ、どうしたんやろか。
 去年の『厄《やく》』は無事にすんださかい安心しとったになあ、方角でも悪いんやろか、気がつかなんだが
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