転ぶまい、車にぶつかるまい、帽子を飛ばすまい、栄蔵の体全体の注意は、四肢に分たれて、何を考える余裕もなく、只歩くと云う事ばかりを専心にして居た。
 肩や帽子に、白く砂をためて家に帰りつくと、手の切れる様な水で、パシャパシャと顔や手足を洗うと栄蔵は、行きなりお君の前に座って、懐の煮〆めた様な財布の中から、まだ新らしい十円札を出してピタッと畳に起[#「起」に「(ママ)」の注記]いた。
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「どうおしたのえ、それ。
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 お君は、びっくりしてきいた。
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「川窪はんで、今月の分にとお呉れやはったんや。
 来月は、どうなるんやか私は知らん。
「何故?
「国に貸したものがあるさかい何の彼の世話やいてもろうとる、あの役場の馬場はんと一緒になって、幾分なりと入れさせる様にすれば、それから裂いで廻してやろ云うてなはるんや。
「そいならあの新田の山岸はんの事ったっしゃろ。
 あそこの旦はんと父はんとは知合うてやもん、何でもない事ってっしゃろ。
「あの先の主人の政吉はんとは知っとるが、この頃では、東京の学校を卒った二番目の息子が何でもさばいて、
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