それに、あそこの院長はんが親切なお人で、何《な》んでも廉《やす》うしとくれやはるんさかい。
「そんなら十円あれば、まあええのやな。
 そう云うわけやったら私《わし》も、どうぞして十円ずつは出してもらうようにしよう。
「出してもらう? 誰にえ。
「月に十円ずつ出しとくれやす人はなかなかあらへんのやけど、放とくわけにも行かん故、間が悪いけど、川窪はんに出《だ》いてもろうと思うとるんえ。
 外に誰ぞ、ええ人があるやろか。
「さあ。
 ほんま云えば、川窪はんへそな事云うて行かれんわなあ、父はん、
 私が、不首尾な戻り様したのやから、あの奥はんもさぞ気まずう思うといでやろから……
 でも此家《こちら》へ来て間もなく、挨拶かたがた詫に行たら、どこぞへ行きなはるところやったが、物を祝っとくれやして、いろいろねんごろにしとくれやはったほどやから、うちで思うとるほどでもないかもしれんが……
「な、そうきめよ、
 外にしようがあらへんやないかい。
「そうやなあ。
[#ここで字下げ終わり]
 恭二が、ムクムクとしたので、云いかけた言葉をお君は引こめた。
 疲れて居る栄蔵は、一寸の静けさの間にすっかり眠ってしまった。
 お君は、暗黒い中で、まざまざと彼の時分の事を思い浮べた。
 あの時は、まるで、どうも出来ないほど辛いと思って居たが、今思うと、ほんに何でもない事だったと思うと、
[#ここから1字下げ]
「姑のある家へ行ったら、なかなかこれどころではないものだよ。
[#ここで字下げ終わり]
と主婦がよく云って居たのに思いあたる。
 物事をよく条だてて行く、男以上に頭の明らかな主婦が、自分が今日こうやって、こんな事になやまなければならない運命を持って居ると云う事を胸の中に知って居て、
[#ここから1字下げ]
「人間は、いつどこで、どう世話になったり、なられたりするか分らないものだから、不義理はして置けないものだねえ。
[#ここで字下げ終わり]
と立つ朝何気なく、他の話に取り混ぜて云ったのではあるまいかとさえ気を廻した。
 自分の愚かさから、いつでも行く先へ網を張る様な事を仕出来して、お君は、淋しい、やるせない涙を、はてしない夜の黒い中に落して居た。

        (四)[#「(四)」は縦中横]

 栄蔵は翌る朝早く川窪へ行くと云って、来た時の通りの装で出かけた。
 半分はもう忘れて居る道を、何としたのか沢山の工夫が鶴端[#「端」に「(ママ)」の注記]をそろえて一杯に掘り返して居るので、目じるしにして来た曲り角の大きな深い溝も、御影石の橋を置いた家も見失って仕舞った。
 交番さえも見つからずに、あっちこっち危い足元でまごついて居る間に、馬子に怒鳴りつけられたり、土をモッコにのせて運ぶ十六七の若者に突飛ばされて、
[#ここから1字下げ]
「眼を明いて歩けやい。
[#ここで字下げ終わり]
と云われたりした。
 酒屋の御用聞に道を教わって、何年も代えない古ぼけた門の前に立った時、気のゆるみと、これからたのむ事の辛さに落つきのない、一処を見つめて居られない様な気持になった。
 大小不同の歩き工合の悪い敷石を長々と踏んで、玄関先に立つと、すぐ後の車夫部屋の様な処の障子があいて、うす赤い毛の、ハッキリした書生が、
[#ここから1字下げ]
 どなた様でいらっしゃいますか。
[#ここで字下げ終わり]
ときいた。
「昆田《こんだ》」と云う誰でもが覚えにくがる栄蔵の名字を二度ききなおしてから、奥へ入って行ったがやがてすぐに客間に通された。
 あの茶色の畳の下駄を書生の手でなおされるのかと思うと、心苦しい様だし、又厚いふっくらした絹の座布団を出されても敷く気がしなかった。
 カンカン火のある火鉢にも手をかざさず、きちんとして居た栄蔵は、フット思い出した様に、大急ぎでシャツの手首のところの釦をはずして、二の腕までまくり上げ紬の袖を引き出した。
 久々で会う主婦から、うすきたないシャツの袖口を見られたくなかった。
 金を出してもらいに来ながら、下らない見栄《みえ》をすると自分でも思ったけれ共、どんな人間でも持って居る「しゃれ気《け》」がそうさせないでは置かなかった。
 自分の前に座った此家の主婦が、あまりにいつ見ても年を喰わないのにびっくりした栄蔵は、一寸行きつまりながら、低いつぶやく様な声で、時候の挨拶、無沙汰の云い訳けをし、つけ加えてお君の詫までした。
 主婦は、気軽に、お君の身のきまったよろこびだの、総領の達も、とうとう今年は学校が仕舞いになって後だてが出来て良いなどと栄蔵を満足させる事ばかりを話した。
 大層この頃は時候が悪い様だ、お節はどうして居ると云われた時に、漸く栄蔵はお君の事を話し出した。
[#ここから1字下げ]
「同じ結核でも胸につきますよりは、腰骨についた
前へ 次へ
全22ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング