となどすると平にのばした腕には何の感覚もなく一寸動こうともしないのに気がつくと、血の出るほど唇をかんで栄蔵は凹んだ頬へ大粒な涙をボロボロ、ボロボロとこぼした。
 家の行末を思い、二人の不幸な子の身を思い、空しい廃人となって只、微かな生を保って居る自分を想いして、あるにもあられぬ思いがした。
 運命の命ずるままに引きずられて、しかも益々苦痛な、益々暗澹たる生活をさせられる我身を、我と我手で鱠《なます》切りにして大洋の滄《あお》い浪の中に投げて仕舞いたかった。
 始めの間は、家、子供、妻と他人《ひと》の事ばかり思って居た栄蔵は、終に、自分自身の事ばかりを考える様になった。
 出来るだけ早くこの辛い世間から抜し[#「抜し」に「(ママ)」の注記]たいと希う心、早く、無我の世界に入りたいと望む心が日一日と深くなって行った。
 めっきり気やかましくなった栄蔵に対してお節は実に忠実に親切にした。
 こう云うのも病気のため、ああ怒るのも痛みのため、お節の日々は、涙と歎息と、信心ばかりであった。
 気の荒くなった栄蔵は、要領を得ない医者に口論を吹かける事がある。
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「一寸も分らん医者はんや、
 私はもう貴方の世話んならんとええ、
 どうせなおらんものに、金をすてて居られんわ。
 さ、さっさとお帰り、
 もう決して世話んならん。
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 五六度医者といやな思いを仕合って栄蔵はたった一人の医者からはなれて仕舞った。
 腰と首根と手足の附け根に、富山の打ち身の薬が小汚くはりつけてあった。
 一月ほど立って手は上る様になったが指先が利かなかった。
 三度の食事の度んび、栄蔵はじれて涙をこぼしたり怒鳴ったりした。
 栄蔵の体はいつとはなし衰弱して来た。
 手足がむくんだり、時に動悸が非常にせわしい事などがあったけれ共、お節は元より栄蔵自身でさえ心臓が悪くなって居ると云う事は知らなかった。
 今はもう只一人の相談相手の達に一寸でも来てもらうより仕様がないと思って、お節は人にたのんで今度の事をこまごまと書き、
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「私もたった一人にて、何とも致し様これなく候故、何卒、十日ほどの御暇をもろうて一度帰って来て御くれなされ度。
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と云ってやった。

        (七)[#「(七)」は縦中横]

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