うおしたのえ。
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と云うなり手をとって土間を歩かせ大急ぎで床を取ってやすませた。
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「ま、ほんにどうおしたのえ、
ころびやはったんか。
「何か踏み返してころぶ拍子に強く亀の尾を打ったらしい。
「亀の尾は、悪所やさかい。
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と云って居る間にも痛みと熱は次第に高まって行った。お節は額と打ち身の所に濡れ手拭をのせて足をさすったり、手を撫でたりして居たが、手にさえ感じられる熱の高さにびっくりして医者を迎えに行ってもらうために、一番近い家まで裾をからげて走って行った。そこの若い者に用向を話すとすぐ、年を取った女と思えない早さで我家に走り帰った。
小一時間たってから使の若者は医者を連れて来た。立居振舞が如何にも大風で、鳥なき里のこうもりの人望を一身に集めて居る医者は、ゆっくりゆっくり、亀の尾を打った拍子にひどく脳に響いて熱が出たのだからそう大した事はないと云って下熱剤を置いて行ってしまった。
火の玉の様になった栄蔵のわきで手拭を代える事を怠らずに、お節は二夜、まんじりともしなかった。
四日五日と熱は一分位ずつ下って、十日目には手にも熱く感じない様になってお節は厚く礼を述べて借りて居た計温器を医者に返した。
一日一日と頭ははっきりして行ったけれ共手足の自由がきかなかった。
お節は、筋がつれたのだと云って居るけれ共栄蔵はもっと倍も倍も重く考えて居た。
亀の尾を打った者は、打ち様によって死んで仕舞う位だからきっと、躰を動かす働きが頭の中から悪くなってしまったのだろうと思った。
盲人だと云ってもいい位の体の上にまたこんな事になられては、生きて居る甲斐がない。栄蔵は、絶えず激しい不安におそわれて、自分の居る部屋の隅々、床の下、夜着のかげに、額に三角をつけた亡者共が、蚊の様な声をたてて居る様に感じて居た。田舎医者は、四肢の運動神経に故障の出来たわけが分らなかった。
今日はよかろう、明日はよかろう、夫婦ともそれを空だのみにして居たけれ共十日二十日と立つ中にそれも絶望となってしまった。
奈落のどん底に突落された様な明暮れの中に栄蔵は激しい肉体の悩みと心の悩みにくるしめられた。
打ったところが、何ぞと云っては痛み、そこが痛めば頭の鉢まで弾けそうになった。
何かして、フト手の利かない事を忘れて、物を握ろう
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