拭くと、左の手でグイと押しやって、そのまんま燈《あか》りの真下へ、ゴロンと仰向になった。
 非常に目が疲労すると、まぼしかるべきランプの光線さえ、さほどに感じない様になるのだ。
 黒い眼鏡の下に、一日一日と盲いて行く眼をつぶって気抜けのした様な、何も彼にも頭にない様な顔をして居た。
 なげ出した顔をお節の方から見ると、明らかに骸骨の形に見えた。
 非常に頬骨が高い性《たち》の所へ大きな黒眼鏡をかけて居るのでそれが丁度「うつろ《洞》」になった眼窩の様に、歯を損じた口のあたりは、ゲッソリ、すぼけて見える。
 お節は、つぎものの手を止《と》めて、影の薄い夫の姿を見入った。
 地の見える様な頭にも、昔は、左から分けた厚《あつ》い黒々とした髪があったし、顔も油が多く、柔い白さを持って居た。栄蔵の昔の姿を思い浮べると一緒に、小ざっぱりとした着物に、元結の弾け弾けした、銀杏返しにして朝化粧を欠かさなかった、若い、望のある自分も見えて来た。
 無意識に手をのばして、自分の小さい櫛巻にさわった時、とり返しのつかぬ、昔の若さをしたう涙が、とめ途もなくこぼれた。
 涙に思い出は流れて、目の前には、不具な夫の小寂しい姿ばかりが残るのである。
 ややしばらく身動きもしないで居た栄蔵は、片手をのばして、お節の針箱のわきから、さっき来た手紙を取った。
 娘の手蹟を、なつかしげに封を切って、クルクルクルクルと読んで仕舞うと、ポンと放り出して、
[#ここから1字下げ]
「あかん。
[#ここで字下げ終わり]
とうめく様に云った。
[#ここから1字下げ]
「何んや、
 どこからよこいたんどすえ。
「東京――お君からよ。
 病気になって、偉う困っとる云うてよこいたんや。
 腰の骨が膿んだ云うてやが、そんな事あるもんやろか、
 とんときいた事はあらへんがなあ。
「え? 腰の骨が膿んだ。
 まあまあ、どうしたのやろ、
 あかんえなあ。
 そいで何どすか、切開でもした様だっか。
「うん先月の十一日に切ったそうや。
 もう一月やな。
 そいに、何故、もっと早う云うて来んのやろ。
 何と思うて、今まで、延ばしよったんか、そいやから彼《あ》の娘《こ》、いつもいつも抜けや云われるんや。
「ほんにまあ、どうしたんやろか。
 去年の『厄《やく》』は無事にすんださかい安心しとったになあ、方角でも悪いんやろか、気がつかなんだが
前へ 次へ
全44ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング