雲母片
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)長閑《のどか》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九二四年三月〕
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[#ここから2字下げ]
わかい、気のやさしい春は
庭園に美しい着物を着せ
      ――明るい時――
[#ここで字下げ終わり]

 林町の家の、古風な縁側にぱっと麗らかな春の白い光が漲り、部屋の障子は開け放たれている。室内の高い長押にちらちらする日影。時計の眩ゆい振子の金色。縁側に背を向け、小さな御飯台に片肱をかけ、頭をまげ、私は一心に墨を磨った。
 時計のカチ、カチ、カチカチいう音、涼しいような黒い墨の香い。日はまあ何と暖かなのだろう。
「ああちゃま、まだ濃くない?」
 母は、障子の傍、縁側の方に横顔を向け、うつむいて弟の縫物をしていた。顔をあげず、
「もう少し」
 丸八の墨を握ったまま、私はぴしゃ、ぴしゃ硯を叩いて見た。自分の顔は写らないかと黒い美しい艷のある水を覗いた、そしてまた磨り始める。
 何処かで微かな小鳥の声。
 見えないところに咲いている花の匂いが、ぽかぽかした、眠くなる春の光に溶けて流れて来るようだ。
 彼方側の襖の日かげがゆれて母が立って来た。
「もういいだろう?」
 私は、墨で硯の池の水を粘らせて見た。
「どろどろでなくっていいの?」
「この墨は、灰墨じゃあないから、そんなにどろどろにはならないよ。半紙は?」
「ここ」
 私は、七歳で、真白い紙の端に墨の拇印をつけながら、抓んで半紙を御飯台の上に展げた。母は、傍から椎の実筆を執り池にぽっとりした! 岡でくるくる転して穂を揃えた。その筆を持って、小さく坐っている私の背後に廻った。
「さあ筆を持って。――そうじゃあなく、その次の指も掛けて、こう」
「こう?」
「そうよ。いいかえ。一番先にいろはと書いて見よう、ね。よく見ていて、次には一人で書くんだよ」
 母は、生れて始めて筆を握った私の手を上から持ちそえ、
「ほら、点。ズーッと少しまげて、ちょん。これで片方。こっちは、やっぱり始めに力を入れて、外へふくらがして――ちょん。」口でいいながら、三寸四角位の中に一ついの字を書いた。
 指の覚えもなく、息を殺して白い、春の光に特に白い紙の面を見つめていた私は、上から自分の手を捕まえた母の力がゆるむと、溜息をつ
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