いた。
黙って字を眺め、首をねじ向けて後に中腰をしている母の顔を仰見た。
母は、私のおかっぱの頭越しにやはり字を見、
「――変な形に出来たこと」と独言した。
「さあ、今度は百合ちゃんの番。書いて御覧。下手でもいいのよ」
私は、体じゅう俄に熱くなり、途方に暮れながら、被布の房を揺すって坐りなおした。筆を握ったが、先の方が変にくたくた他愛がなく、どんな風に動かしていいかわからない。正直にいえば、母が、どっちから、どう書き出したかも、余り珍しく熱心に気をとられているので判らない。
暫く躊躇した後、私は思い切って力を入れ、硯に近い右の方から、ぐっと棒を引いて先をはね、穂先もなおさず左側に向い合ってもう一本の棒を引いた。
ひどく力を入れた上に、墨がつきすぎていたので、見る間に紙ににじみ、折角書いたところは、一面真黒な墨のぬかるみになってしまった。――部屋にさす日の光はいよいよ明るい。母は、
「まあいやだ!」といって、楽しそうに笑った。
「どうしたの? これは字じゃあない。たどんじゃあないの。たどんやさん! さあ、もう一遍。今間違ったよ。そっちからではなく、こっちから。この棒の方から。さあ始めて」
半紙の下には、六つに仕切った罫の下敷があった。筆を握って瞬きもせずそのはっきりした四角な区切りを見つめていると、ひとりでに手が動いてどうしても右から先に落ちる。はっとする間もなく、私は次の一字も右側から先に書き出してしまった。
後から覗いていた母は、黙って、私の手を肩越しに掴んだ。そして、力を入れ、先刻の言葉がまた聞えるように思う程、はっきりはっきり定りどころをきめて、もう一度、いの字を書いた。そして、たった一言いった。「さあ。」
私は、すっかり上気《のぼ》せあがり、胸がどきどきしてよく眼が見えないようになった。母の心持が押しかぶさるようにこわく、苦しく、重く迫って来た。母が心の中で怒り、何故書けないのか、馬鹿さん、と思っているのはよくわかる。上手に書きたく、褒められたいのだけれども、筆というものは、何という手に負えないものか。その上、私の心には字というものの感じがはっきり写らず、母の書いてくれるいの字も、いという音には相違ないのだけれど、眼で見れば、少し真中で曲った蟹の鋏形の二本の棒としか見えない。それが、どうして、私共の喋る言葉のいなのか。大切な、間違えてはいけな
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