い字だと、凝っと見れば見る程不可解な、まごつく、奇怪な二本の棒になって来る。而も、私がこんなものさえ上手に書けなくては、学校へなど到底行けないとおっしゃったではないか。ああ、あんなにいい袴や草履が出来たのに!
私は、涙を出し、がむしゃらになって、この変ないを組伏せそうに、ぐっ、ぐっと筆をこじった。今度もやっぱり我知らず右の方から。母は、背後から傍に来、坐ってじっと私の顔を眺めた。
見ると、母の眼も、明るい日の中であやしく閃いている。
「どうしたの? 百合ちゃん。お前そんなに馬鹿なの? どうしてちゃんといの字位が書けないのだろう」
母の沈んだ、恥しそうな情けなさそうな声をきくと、私は堪らなくなった。私は、筆を紙の上に放り出し、始めはしくしく、やがて声を出して泣き出した。
私は、馬鹿と乞食とが世の中で一番いやな、恥しいものだと思っていた。もうじき学校に行くそのお稽古に書く字が、どうしてだか書けない。字の書けないのはきっと馬鹿だろう。自分もその馬鹿であったのかと、絶望しきって涙の止め途がなかったのであった。
明治三十九年の春、児童心理学をまるで知らない若い感情家の母と、幼い未開人めいたその娘とは、暖い十畳の日だまりで、神の微笑そうな涙を切に流した。
霜のない地面から長閑《のどか》な陽炎が立つ。
雀が植え込みの椿の葉を揺るささやかな音。程なく私は縁側に出、両脚をぶら下げて腰をかけた。膝には赤い木皿に丸い小さいビスケットが三十入っている。
柱に頭をもたせかけ、私はくたびれてうっとりとし、ぼんやり幸福で、そのビスケットを一つ一つ、前歯の間で丹念に二つにわって行った。
[#地付き]〔一九二四年三月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「女性改造」
1924(大正13)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング